【番外編】アスペン便り

2010.11.26

今回はいつものテーマから少し外れた話をします。
11月中旬の一週間、大阪で開催されたアスペン研究所主催のエグゼクティブセミナーに参加してきました。アカデミックの権威の方々、そして大手企業の幹部の皆さんと、ひたすら古典をベースにした対話を繰り返して、自身の価値観を見つめ直す日々。今回は番外編として、この刺激溢れる場で私が感じたことを報告します。とはいえ、本欄に載せる以上、単なるセミナー紹介に終わらずに、非連続成長へのヒントにも触れていくつもりです。
では、さっそく・・・

執筆者プロフィール
山口 英彦 | Yamaguchi Hidehiko
山口 英彦

東京大学経済学部卒業、ロンドン・ビジネススクール経営学修士(MBA、Dean's List表彰)。東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、ボストンコンサルティンググループを経て独立し、多数のベンチャー企業のインキュベーションを手がける。その後グロービスに加わり、現在は同マネジング・ディレクター(ファカルティ本部担当)を務める。またグロービス経営大学院や 50社以上の企業幹部研修で教鞭を執りながら、経営戦略分野(新規事業開発、サービス経営、BtoB戦略など)の実務研究に従事。主著に『法人営業 利益の法則』(ダイヤモンド社)、『日本の営業2011』(共著、ダイヤモンド社)、『MITスローン・スクール 戦略論』(共訳、東洋経済新報社)。その他、企業変革や営業力強化などをテーマにした寄稿・講演実績多数。


アスペン・エグゼクティブセミナーとは?(※1)

「我々の時代の特徴のうち最も予期せざるものは、人の生き方においてあまねく瑣末化(trivialization)が行きわたっていること」

これは1949 年、米国コロラド州アスペンで開催された「ゲーテ生誕200 年祭」において、シカゴ大学総長(当時)のハッチンスが鳴らした警鐘です。続けて彼は「専門家というものは、専門的能力があるからといって無教養であったり、諸々の事柄に無知であったりしていいものだろうか」と人格教育の必要性を訴えました。この問題提起が原点となり、学者や実業家たちが日常の煩雑さから解放され、ゆっくり対話する場の提供を目的に、アスペン研究所が設立されます。そして翌年スタートしたのがアスペン・エグゼクティブセミナーです。日本では92年頃からセミナーのコーディネーションが始まり、98年に正式に日本アスペン研究所が設立されて、以後エグゼクティブセミナー(企業幹部対象)、ヤング・エグゼクティブセミナー(マネージャ対象)、ジュニアセミナー(高校生対象)等を定期開催しています。

実は弊社グロービスでは、「リーダーは人間性を磨かねばならない」との観点から、経営メンバーが積極的に米国アスペンのセミナーに参加して、自己研鑚を図っています。私も2年ほど前から参加を検討してきたのですが、なかなか仕事との調整がつかず、今回ようやく日本アスペンが国内で開催するセミナーへの参加が叶った次第です。

私が参加したのは第38回エグゼクティブセミナーで、参加者は私を含めて15名。派遣元は総合商社、メガバンク、電機、通信といった各業界のリーダー企業がずらり。各社はだいたい執行役員クラスを派遣してきますので、年齢的には50~55歳あたりの方が多く、その意味では若輩者の私は少々浮いた存在だったかもしれません。
アスペンのクラスには、参加者に加えて、モデレーター2名とリソースパーソンと呼ばれる役割の方が数名参加します。今回のモデレーターは、東大名誉教授の本間長世氏と、国際通貨研の篠原興氏。日本アスペンの副理事長でもある本間先生は、ご専門の政治思想史に限らず、とにかく何でもよくご存じの、まさに「知の巨人」という感じの方でした。一方、リソースパーソンというのは、我々の議論の途中に専門的見解を提供する役割で、数名が入れ替わりで参加されます。今回は、中村桂子氏(JT生命誌研究館館長)、猪木武徳氏(国際日本文化研究センター所長)らが議論に貢献して下さいました。

セミナーのカリキュラム

セミナーは、全員で大阪のホテルに泊まり込んでの5泊6日。
アスペンのカリキュラムは「優れた古典やコンテンポラリーな文献をよりどころに、自由な対話方式によって語り合い、人間的価値の本質について思索し、自らの現在の位置を見極め、ヒューマニティを高める」を狙いにしています。メインの対話型セッションに加えて、フィールドワーク的なプログラムや、感受性を養うための芸術鑑賞、最後に半日ほどの振り返りセッションが組まれていました。

メインのセッションで扱った6テーマ、主な文献は以下の通りです。

●第一セッション:世界と日本
ケナン「二十世紀を生きて」、坂口安吾「日本論」、岡倉天心「東洋の理想」他、7文献

●第二セッション:自然・生命
ダーウィン「種の起源」、ゲーテ「科学方法論」「形態学序説」他、9文献

●第三セッション:認識
ベーコン「学問の促進」、プラトン「ソクラテスの弁明」、ヴィーコ「学問の方法」他、7文献

●第四セッション:美と信
ダンテ「神曲」、旧約聖書「創世記」、新約聖書、道元「正法眼蔵」他、8文献

●第五セッション:ヒューマニティ
福沢諭吉「学問のすすめ」、アリストテレス「ニコマコス倫理学」、孔子「論語」他、8文献

●第六セッション:デモクラシー
ロック「市民政府論」、アメリカ独立宣言、吉野作造評論集他、6文献

これら6つのセッションを通じて、国家とは?生命とは?宗教とは?人権とは?・・といった非日常的な問いを何度も突きつけられました。自分が得た発見は実に膨大で、本稿でとても伝えきれないのが残念です。以下では、本コラムのテーマである非連続成長にも関連しそうなポイント、2つほど紹介したいと思います。

非連続成長への示唆1:先人からの学び方

アスペンのセッションの進め方は独特です。「古典と向き合う」を意識して、1つの文献にだいたい30~40分かけて、全員で対話をします。モデレーターは内容については殆どコメントせず、対話の交通整理する程度。と申し上げると、発言は全て参加者任せに聞こえますが、実はいろんな制約がありまして、例えば

・文献解釈に関する質問は禁止(事前に内容をすべて理解しておくよう求められる)

・必ず文献の参照個所を明言する(つまり、文献から離れたことは言ってはいけない)

・自分の経験談を話すのも原則NG(安易な「自分への引き寄せ」は禁止!)

という具合に、自由な発言が許される一般的な読書会とは、一線を画しているのです。

我々は古典を読んだ時、矛盾点・疑問点の指摘や、自分の見解との比較を述べがち(私自身も最初はやってしまいました!)ですが、それではアスペン流の対話はできません。皆さんも、読んだ本の感想を聞かれると、「こういう点について書いて欲しかった」とか、「著者のこの意見に反対」とか、つい言っていませんか?でもそれは表面的な評論であって、著者が持っていた世界観や人間観なんて、我々には全く見えていないのかもしれません。著者が自分の命をもかけて文字を刻んだ状況と、我々がソファで横になりながら本を読んでいる状況とでは、思索を始める前提がまるで違いますから。

こうしたありがちな評論を避け、人間性を高める深い対話をする上で、先に紹介した数々の制約は効果的でした。我々は文献に「入り込む」ことを余儀なくされ、古典が記された当時の社会情勢や、著者の個人的立場をつなぎ合わせていく。そこから、ひたすら文章の奥に込めた著者の思いを探り出す。思いまで辿りつけると、やっと著者の価値観に触れることができ、自身の哲学の欠如を自覚できるようになります。

本コラムでも触れてきたように、非連続成長を担うリーダーは、多くの局面で自身の事業観や経営哲学が問われます。では、経営哲学をどうやって涵養すればよいのか?企業によっては、外部の有識者をリーダー研修に呼んできて、文化論や自然科学といったリベラルアーツ領域の話を聞かせることがよくあります。あるいは自らの意思で、歴史や哲学に積極的に触れ、先人の知恵に学ぼうとされている方もいらっしゃるでしょう。しかしそうした努力も、受け手の姿勢が第三者的なままだと、一時だけの「刺激」に終わってしまう可能性が高いのです。

まずは自身の先入観を排して、先人が思索に耽った状況に身を置いてみる。それでやっと少しだけ「自分なら何を言うか?」を頭ではなく心で考えられる・・・アスペンでの対話は、入り口での自由を奪う代わりに、その先にある思索に無限の深みを与えてくれた気がしました。

非連続成長への示唆2:経営と科学

本コラムの第二回で、私は「一流の経営者は非合理の理に挑戦する」と書きましたが、アスペンでは、この意味を自ら考えさせられる場面が何度かありました。

まず、今回読んだ数々の文献から印象付けられたのは、(特に欧米の賢人たちの)議論を曖昧なままにしない態度です。例えばドイツの物理学者ハイゼンベルク「部分と全体」(※2)では、彼が同僚の物理学者ボーアと(何とヨットを楽しみながら船上で!)語らいながら、理論物理学が解明できたこと&できていないことを整理していくシーンが描かれます。この会話を通じてハイゼンベルクは、物理学では生命体の形成は解明できない点を浮き彫りにし、後に分子生物学の分野を切り開くきっかけを作ります。まさに既知(事実や公理)と仮説と期待とを峻別し、「ここまではわかったから、ここから先のわからない部分を掘り下げよう」という追究姿勢に感銘を受けました。

一方、(安易な一般化には注意したいものの)日本人が残した文献からは、こういう「わからない部分を議論で詰める」という凄味は、あまり感じませんでした。言い換えれば、客観的事実と期待とをごっちゃにして、丸くまとめてしまう傾向が否めません。和辻哲郎が、日本が太平洋戦争に敗北した背景に「直観的な事実にのみ信頼を置き・・・推理力によって確実に認識せられ得ることに対してさえも、やってみなくてはわからないと感ずる」という日本人の性向、つまり「科学的精神の欠如」があったと指摘しているように(※3)。

今日の企業経営を預かる我々はどうでしょうか?私の見る限り、日本の経営現場でも、客観的事実に基づかない経営判断の危うさは既に認識されていると思います。事業戦略策定の場で、財務数値や顧客アンケートといったデータによる検証や、理路整然としたプレゼンテーションがこれほどまでに重視されていますから。
しかし賢人たちに言わせれば、それでもまだ「科学的精神に則っていない」かもしれません。大森荘蔵いわく「論理的であることは冗長である」と。つまり、我々がポジティブな意味を込めて使う「論理的」は、単に「始めに言ったことを言い直し言い換えること」であり、「公理系の繰り言」に過ぎないという捉え方です。(※4)

一方、大森は科学者が持つ知性について、「リンゴの落下を月や地球の回転その他の運動と一緒にして「みんな」という一般性を見てとったこと、それが天才の眼」だとも言います。実はこれこそが、私がなかなかうまく表現できずに「非合理の理」と書いた、一流の経営者が持つ科学的精神です。誰にでも見えている現象から、その背後にある意味を彼だけが読みとり、自社の経営へと応用していく。何度も触れているヤマト運輸の小倉氏のエピソードを思い出してみてください。誰もが知っているJALパックや吉野家の商法を見て、宅急便事業を思いつき、マンハッタンのビルの屋上から見たUPSの集配車の動きから、自社のビジネスモデルの成功を確信する。まさに「現象から一般性を見てとる科学者の眼」だと言えましょう。

・・・こんな話を長々と書いたのは、最近多くの方に「非合理の理」について賛意を頂くものの、どうも「経営は理屈じゃできない、やってみなきゃわからないよね」と誤解される傾向があるようですので。何度も申し上げますが、理から逃げたら、戦前の日本軍と同じ過ちを犯しかねません。日々の経営は(たとえ冗長だとしても!)論理的であることを信条とし、その上での「非合理の理」であることを忘れずにいたいものです。

セミナーを終えて

1週間続いた対話からの示唆を総括するならば、それは先人達が示してくれた圧倒的な知の集積、つまりは人間の賢さの再認識でした。と同時に、人間の賢さの中には、時に愚かさが見え隠れする現実もある。人類の歴史は、先人たちの賢さが生んだ発展と、愚かさが生んだ停滞や破壊との繰り返しだったのだと、改めて思います。
人類がその愚かさにおいて滅ぶか、その賢さにおいて生き残るのか、その命運は常に「今」を生きる我々が握っている・・一人の人間として、そんな責任感で気持ちが引き締まります。

次回からは再び「非連続成長の事業革新」について、じっくり書いていきます。どうぞお楽しみに。

以上

※1 アスペン研究所のウェブサイトからの引用

※2「部分と全体」(W. ハイゼンベルク著、山崎和夫訳、みすず書房)

※3「鎖国」(和辻哲郎著、岩波書店)

※4「流れとよどみ」(大森荘蔵著、産業図書)

※文中の所属・役職名は原稿作成当時のものです。