責任の種火~ケースメソッドの再発見~

2010.02.25

「僕自身が●●●で得た最も貴重な成果の一つが、リーダーとしての自覚を得たことだと思う。」
手前味噌ではあるが、これは弊社代表である堀のコメントである。皆さん自身が「リーダーとしての自覚」を得られた経験、あるいは現経営メンバーがその自覚を得たであろう経験を想像してほしい。上の空欄にはどんな経験が入ると想像するだろうか?
彼の言葉は続く。
「在学中の2年間(ケースメソッドの環境の中に身を置き)、『あなたは経営者である。その経営者としてどう考えますか』と問いかけ続けられる。『リーダーとしてそのような考えや姿勢でいいのか』と詰問されることもあった。」
上の空欄にはHBS(ハーバード・ビジネス・スクール)の文字が入る。HBSをはじめとする多くのビジネススクールで採用されてきた手法がケースメソッドである。上述の「問いかけ続けられる」環境こそ、ケースメソッドの醍醐味だ。堀のコメントからはこのケースメソッドにおいて、前回までに議論した「非日常の問い」と「3つのドライバー」が駆使されているように感じる。個人に火を点けるための舞台装置としてのケースメソッドの可能性を感じる。しかし、この舞台装置の可能性を実は我々自身が勝手に狭めてはいないだろうか。今回はその陥りがちな落とし穴と、通常ビジネススクールで学ぶ若手ではなく、次世代リーダー層を対象とした企業内経営教育ゆえの可能性について議論してみたい。
注:ケースメソッドとは?
ケースメソッドとは、「ケース」に基づいた環境分析から戦略立案、意思決定までのプロセスを、クラス討議などを通じて実際に体験するもの。「ケース」とは、ある企業が実際に直面した状況を忠実に再現した教材のこと。ケースには、ある企業の置かれた市場環境や競合状況、社歴やリーダーの性格、技術的な強みや製品の特徴、財務情報など、様々な情報があえて雑多に書き込まれている。もともとアメリカの法学校で生まれた教育方法であり、現在欧米のビジネススクールを中心に経営教育の一手法として広く採用されている。

執筆者プロフィール
河尻 陽一郎 | Kawajiri Yoichiro
河尻 陽一郎

東京大学法学部卒業、ケース・ウェスタン・リザーブ大学(米国)修了 (Master of Nonprofit Organizations)。外資系戦略コンサルティングファームに入社。経営コンサルタントとして戦略立案及び実行支援を行う。その後、グロービスに入社。現在グロービス経営大学院の研究開発チームの1つ、グローバルなアジェンダにフォーカスしたグローバル・ファカルティ・グループの研究開発リーダーを務める。経営大学院におけるグローバル領域科目や、企業の経営幹部育成研修における講師も務める。共著に「個を活かし企業を変える」(東洋経済新報社)「新版MBAマネジメント・ブック 」(ダイヤモンド社)など。


ケースメソッドに対する誤謬

実は我々自身、「ケースメソッド=知識インプットの手段」という構図を強調しすぎてきたのではないかと反省している。場合によっては、「ケースメソッド=お勉強」という指摘をいただくこともある。知識インプットの側面を否定するわけではないが、はたしてそれだけか。次代の経営を担うと目される次世代リーダー向けの研修にフォーカスを当てながら、知識インプットに偏りがちな我々の思考を紐解いてみたい。

■「潤滑油(=共通言語作り)」礼賛

私自身、この研修業界、経営教育業界に関わって10年になるが、前回議論した「3つのドライバー」の「先行オーガナイザ:潤滑油」の機能について、やや重要性を強調しすぎてきたのではないかと懸念している。「潤滑油」、言い換えれば「共通言語」である。経営の「共通言語」があったほうが、議論の効率、経営の品質は上がる。たとえば、「バリューチェーン」という言葉を使って議論していると、一見経営について理解して議論しているように見える。ただ、「共通言語」を習得することで満足していないか。誰しも「共通言語」”さえ”存在すれば、議論の効率、経営の品質が必ず上がると思っていないはず。自らに問いたい。知識としての「共通言語」を習得することに重きが置きすぎてはいなかったか?

「共通言語」を手に入れた上で進みたい領域は何か?それが、前回議論した「鏡」、言い換えれば自己を相対化し、己の足らざるを知る領域だ。「共通言語」を使えば、ある程度意思決定のオプションを挙げることはできる。各オプションの評価もできる。問題はその先だ。たとえば、複数のオプション候補のうち、「あなた」はどのオプションを採用するのかを問われ、そのうえで、「本当にそれでいいのか」と詰め寄られる。どんなツールを使っても、最後に直面する正解のない二律背反の局面、そこで立場をとるのは自分だ。そんな「未体験かつ逃れられない」意思決定を通じて問われるのが、冒頭であげた「リーダーとしての考えや姿勢」である。

ケースメソッドには、「潤滑油=共通言語作り」に止まることなく、「鏡」を通じた自己相対化、リーダーの姿勢を問うレベルまで到達できる可能性があるはずだ。次世代リーダーを対象とした場合、さらにその可能性は広がる。

次世代リーダーとなれば、豊富なビジネス経験を有する。それは成功と失敗の積み重ねである。その経験によって培われた自負心と、失敗への苦い思いが、リーダーとしての自覚を強める。たとえば、ケースのある場面において、「本当にそれでいいのか」と問われたとしよう。第一に、豊富な経験ゆえ、その問題状況の緊迫度や重要度を肌感覚として想起できる。若手であれば、頭ではその問題状況がイメージできるかもしれないが、そこで止まってしまう。

一方、次世代リーダーは、豊富な経験ゆえに、その事例そのものは「未体験」とはいえ、類推できる材料が彼らの引き出しにはたくさんある。ケースの状況を肌身で感じられるからこそ、擬似的なケースの場を、自らに引き寄せることができる。第二に、彼らであれば、その経験と実績ゆえに相応の職責を担っているはず。すでにリーダーとしての自負もある。だからこそ、この場に集まっているわけだ。その自負心ゆえ、「リーダーとしてそれでいいのか」という問いからは逃げられない、逃げてはいけないと自分を後押しする。加えて、過去の失敗の苦さが、同じ過ちを繰り返してはいけないという思いに繋がる。

このように、次世代リーダーは、豊富なビジネス経験や、リーダーとしての自負と失敗経験ゆえ、「未体験かつ逃げられない」問いに対峙しうる可能性を若手以上に有する。だからこそ、次世代リーダーには「共通言語」の習得に止まるのではなく、リーダーとしての自覚を一層強くする領域に踏み込んでほしいのである。

■「実践志向」の隘路

研修に対する費用対効果の議論はまずます盛んになっている。経営教育の分野でも「効果」に対する注目が著しい。「効果」の意味合いとして、学んだ「知識」を「実務で使える」という点が取り上げられる。たとえば、「3C分析(経営のフレームワーク)を明日から使うとすればどのように使うのか」が議論される。「3C」それぞれの記入欄を用意したワークシートが配られる。その書き方、使い方のポイントが説明される。しかし、次世代を担う方々に「3C」の使い方を習得いただき、現場で使っていただくことが、はたして「実務で使える」という本当の効果なのか?この「実践志向」は適切な方向なのか?私はそこに止まっていてはいけないと思う。

次世代のリーダーが目指したい「実践」とは何か。大言壮語を承知の上で言えば、「経営観」を涵養することにあると思う。では「経営観」とは何か。私自身披瀝できるほどの経営観を持つわけではないが、恥ずかしながら考えを述べると、平たくは、経営観とは経営に対する見方、考え方である。経営に携わる上で押さえるべき要素とそれらの関係性である “全体像”が前提にあり、特定の意思決定の際に拠り所となる “判断基準”が含まれる。たとえば、これまで本コラムで議論しているように、「企業がビジネスにおける成果を持続的に生み出し続けるためには、日々のビジネスプロセスを構成する個々人の行動が鍵となる。それゆえ個々人がその潜在能力を最大限に発揮することが大事である」という考え方も一つの見方である(歴史的には、人をモノやカネ同様の一経営資源として調達、消費する考え方も存在していたわけだ)。

では、ケースメソッドのような「未体験かつ逃れられない」意思決定を通じて炙り出されるものは何か。経営上の判断において押さえるべき勘所、陥りがちな悪弊に自分が陥らないように踏みとどまるためのスイッチといえるだろう。こうした勘所を見つけることは、本来は押さえなければならない点を見過ごしていたことに気付き、自分自身の経営の”全体像”を広げることに繋がるはずだ。元々あった要素の関係を強めるということになるのかもしれない。あるいは”判断基準”を研ぐということにもなる。

その結果は、自分なりの格言を増やす、という形をとるのかもしれない。部下に語り継ぎたい座右の銘となるかもしれない。いずれにしても、それらの「勘所」「ボタン」「格言」「座右の銘」が集まったものが「経営観」となるはずだ。こうした経営観の幹をハッキリと強く持てるのであれば、次に「未体験かつ逃れられない」局面に直面したとき、戻ってくるところがある。そこでまた己の「経営観」に至らない点については、幹を太くすることもできる。これこそが次代を担うリーダーに求められる「効果」であり、「実践」ということの意味合いではないか。

個別の「知識」を明日から使うというレベルに止まるのではなく、リーダーとしての責任の自覚の上に「経営観」を陶冶する可能性をケースメソッドに見出せるのではないか。

さらに次世代リーダーはその豊富な経験を通じてすでに経営についての何らかの持論を持っているはずだ。それが「経営観」の核となる。ケースメソッドにおける議論を通じて、その持論が、言い換えれば自分自身が持つ判断の拠り所が明らかにされる。多くの場合、その持論がまだまだであったことに気付く。ときにはその持論にこだわる場合もある。自己否定すら必要かもしれない。しかし、だからこそ持論が磨かれる。そして、少しずつ「経営観」に昇華する。強いものがあるからこそ光る可能性があるわけだ。一方、若手の場合は、こうした明らかにすべき強い持論に乏しいゆえに、磨かれる可能性が限られるわけだ。

次世代リーダーは、自分自身の持論だけではなく、自身の「経営観」を醸成させてくれる、多くの先達や自社の歴史から得られる教訓の息づかいを感じている。実のところ、次世代リーダーは第一線の忙しさゆえ、先達から聞いた一言や自社の歴史が物語る教訓を見聞きしてはいるものの、その意味合いを日々十分に考え尽くす時間を持っていない場合が多い。それらの教訓が、ケースにおける議論において引き出されることで、その教訓の意味合いにハッと気付く。ときには自分自身の持つ持論とのつながりにも気付く。

こうして、より自分に身近な素材によって持論が磨きこまれる。同時に、次世代リーダーだから持つ先達や自社の歴史への敬意や場合によっては愛憎織り交ぜた想いゆえに、各々の持論が「こうあるべき」に止まらずに「こうありたい」という姿になる。このように、次世代リーダーだからこそ、「知識」の隘路に止まらずに、「経営観」を陶冶できる可能性があると思うし、その領域にまで入っていきたいのである。

我々は「ケースメソッド=知識インプットの手段」という構図に陥りがちだ。しかし、この誤謬を取り外すことができれば、とくに次世代リーダーには、ケースメソッドの果実を得ていただける可能性が高い。なぜなら、彼らにはすでに”責任の種火”があるからだ。豊富な経験に裏打ちされた自己を相対化するための引き出しの多さ、リーダーとしての自負、持論、先達や自社の歴史への想い、それらがリーダーとしての自覚を促す。現代のビジネス環境においては、放っておくと消えそうな”責任の種火”をさらに大きくする手段として、ケースメソッドを見つめなおしても良いと思う。

もちろんケースメソッドのみにこだわるわけではない。ケースメソッドはあくまでも一手段に過ぎない。ただ、お伝えしたいのは、「一度本気でその手段の持つ可能性を最大限に活かしきるまで作りこんでみてもいいのではないか」ということだ。しかし、ケースメソッドに狭義の「知識インプット」を越える可能性があることがわかったとしても、そこまで考え抜いて研修設計・実施することは現実には容易ではない。なぜか?次回はその理由を考えてみたい。

※出所:堀義人『創造と変革の志士たちへ』

※文中の所属・役職名は原稿作成当時のものです。