リーダーシップの実践:パワーと影響力を駆使した変革推進の戦略
- 次世代リーダー育成
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新村 正樹
グロービス講師
戦略浸透への挑戦、立ちはだかる壁
世界的なリーダーシップ開発機関、Center for Creative Leadership(CCL)による、128人のシニアレベルのエグゼクティブを対象とした調査がある。この調査によると、「現在の役割を超え、効果的に協働することが“極めて重要“である」と答えたのは86%にも達している一方、「実際にそれを“大変効果的に実施している”」と答えたのはわずか7% だったという(「Boundary Spanning Leadership」Chris Ernst、Donna Chrobot-Mason著)。
ビジネスの場面において個人だけの力で成し遂げられることは限られ、他者からの協力が不可欠である。特に複雑性(多様性、相互依存性)の増した現代社会では、人・組織を動かす難易度はさらに高まっている。こうした中で、ビジネスパーソンとして自らのミッション、ビジョン、目標を実現するには、「想い」や「プラン」があるだけでは不十分であり、人・組織を本当に動かす有効な行動が求められる。
今回の連載では、「実行力のリーダーシップ」と題し、ケース「パワフル社の営業改革」というケースを用い、主人公である新任課長の室井が、壁にぶつかりながらも成長し、一人では到底成し遂げられない高いあるべき姿を、自己成長しながら実現していく姿を描いていく。ケースの中では、自分のチームメンバーのみならず、上司、さらには直接的な権限の及ばない他部署までも動かしていく上で、どのような考え方・スキルが必要か、そして、人・組織が動くメカニズムは何か、を考えていきたい。
ケース:「パワフル社の営業改革」
■薄い反応
「営業本部から西日本支店へ異動になった室井です。10年ぶりの支店勤務、そして営業となりますが、営業本部時代に手がけた『ABCプラン』の推進に向け、全力で取り組んでいきたいと思います。『ABCプラン』には3つのポイントがあります。1つめは顧客にフィットしたソリューション提供。顧客をセグメント毎に分け、ターゲットを絞り込み、それぞれのニーズに応えるソリューションを提供することです。2つめは“結果”ではなく“プロセス”重視。市場全体から分析的に、数値も見ながら営業活動を展開し、再現性を追求していきます。最後の3つめが、ノウハウ・事例の共有化。営業活動の各プロセスで培われたノウハウ・事例の共有化して、全員の営業力を底上げすることです。従来の経験に基づいた営業手法から脱却すべく、一生懸命取り組んでいきたいと思います」
室井の熱のこもった赴任のスピーチであったが、同席した西日本支店のメンバーの反応は薄い。スピーチはポイントを絞り込み、わかりやすくしていたと自負していただけに、室井は反応の薄さが気になった。
■パワフル社
室井の務めるパワフル社は、建材を扱う企業。業界内の競争は厳しく、シェアの上下も大きい。パワフル社は10年前まではトップシェアを誇っていたが、ここ数年業績を落としており、業界3位。市場規模が伸び悩む中、シェアアップを図ることが業界内での生き残りのため必要である。
この業界では、商品自体の違いは少なく、競合から真似されやすい。従い、どうしても価格勝負になりがちであったが、顧客からは品質への要求も強く、他社を圧倒する低価格を提示することは難しい。このため、競合他社は安易な価格勝負から提案内容の充実へシフトしてきている。実際に競合のブレイン社、ロジカル社は提案内容で違いを出し、徐々にシェアを高めている。
パワフル社でも提案内容を充実させるべく、過去から様々な取り組みを行ってきたものの、いずれも中途半端で定着していない。結果、旧態依然とした、勘と度胸、経験に頼った営業スタイルがいまだに主流を占めている。
この状況を打破すべく、昨年就任した吉田本部長以下、営業本部をあげて「ABCプラン」を立案、全社に導入したが、営業現場での浸透度が低く、以前から度々導入されてきた施策と同様、根づかないのでは、と社内では冷ややかに見られている。
■主人公:室井
室井は38歳。営業本部にて吉田本部長肝いりの「ABCプラン」立案の中心的スタッフとして活躍した。この貢献が認められ、同期トップで課長に昇進。同時に、西日本支店の営業5課の課長として異動することとなった。
室井の営業経験は入社から最初の5年間のみ。営業では目立った実績は出せなかったものの、残りの10年ほどは本社での企画系の業務に携わり本領を発揮した。新入社員の頃から理論派で通り、本社に戻ってからはアフター5でビジネススクールに通うなど、勉強熱心な面が見られる。室井の頭脳が「ABCプラン」に活かされた。
室井は、新人の頃に所属した営業組織での旧態依然としたスタイルに衝撃を受け、これを続けている限り自社には未来がないのではないかとの危機感を持った。これが今回の「ABCプラン」に没頭した背景でもあり、室井自身、何としても営業変革を遂げていきたいと考えている。
■内示
2011年3月初旬。本部長室に呼ばれた室井は、異動の内示だと直感した。吉田本部長から、「管理職への昇進おめでとう。4月から課長になってもらいます」との言葉。異例の昇進に驚く室井に対し、吉田は続ける。「君には課長として、西日本支店に行ってもらい、営業5課を見てもらいたいと思う」 突然の課長昇進、そして支店の営業への異動に驚いていると吉田本部長は続けた。
「営業課長ということで驚いていると思うが、実はこれには訳がある。『ABCプラン』のことだ。立案に向けての室井君の貢献は凄いものだった。これはとても感謝している。しかし、全社での展開を考えてみたときに、とても浸透しているとはいえない状況だ。どこの支店も、課も、営業担当も、また本社が何か言ってきた、ぐらいにしか思っていない。僕はこれを本当に浸透させたいと思っている。浸透させたい本気度を示したい。そのために、一番浸透していない支店に君に行ってもらいたいと思っている。一番浸透していない西日本支店で浸透させられたら、全国の支店にも広がるはずだ。だから、私の代わりだと思って、支店に行ってくれないか。もちろん私から最大限、サポートはする。どうだ?」
本部長の熱意に押され、室井は「本部長がそこまでおっしゃるなら喜んで行かせて頂きます。浸透に全力を注ぎたいと思います」とかろうじて答えた。
■西日本支店へ赴任
吉田本部長の期待を受けて、2011年4月、室井は西日本支店に赴任した。全支店メンバーを前にしての赴任の挨拶での感触は良くなかったものの、それは恐らく「ABCプラン」に対しての理解が少ないからだ、と考え、積極的に支店内に啓蒙していきたいと考えた。
新任課長として顧客への挨拶回り、メンバーの把握、支店内の会議など不慣れなことに時間が取られたが、支店長に直訴して支店の「ABCプラン」の説明会を開催することにした。
室井は入念な準備を行い、これだけわかりやすくすれば浸透するだろうと考えた。だが実際に当日になると、支店の全150名のメンバーのうち、3分の2が多忙を理由に欠席した。他の営業課長の多くも欠席であった。
支店の中では、「室井課長は『ABCプラン』のことばかり考えているようだが、本業の営業5課の成績はどうなっているんだ?あの課はこの支店の中でも成績の悪い方、早急に立て直す必要があるのに、こんな説明会をやっている場合じゃないのではないか?」といった声も流れ始めているようだ。
事実、室井の担当する営業5課は西日本支店の10ある営業課のうち、下から2番目の成績であった。メンバーは課長やサポートスタッフも入れ14名、中にはトップクラスの営業成績を誇るベテランもいるが、多くは入社して日の浅いメンバーや、従来の営業方式から脱却できないメンバーも多い。確かに、支店でささやかれる陰口の通り、まず自分の足元から固めないといけない。
室井は、営業本部時代に全社への「ABCプラン」浸透を思い描いた。だが、西日本支店への浸透どころか、支店のほんの一部の1つの自分の課への浸透からのスタートすることになった。「わが社は戦略不在が問題だ、だから明快な戦略を作るべきだ、そう本社時代は思っていた。だが、実際に営業現場に来てみると戦略の実行、浸透、これは想像以上に容易ではないな。これは、時間がかかりそうだな」と室井はつぶやいた。
部下、そして上司との対立
どうすれば人は動く?
「まだまだ自分は管理職じゃないから、やりたいことができない」受講者と話しているとよく出てくる言葉だ。管理職のところは、部長にも、役員にも置き換わることがある。だが、課長や部長になったからと言って本当にやりたいことができるのだろうか? 確かに今現在の自分の権限では出来ないことは決裁できるようになる。だが、そのポジションになったとして、「やりたいこと」は、自分だけで決裁できるレベルで本当にいいのだろうか?
人に動いてもらうために必要なものは何だろうか? 権限があれば人は動くのだろうか?部長に、役員に、社長になれば、誰しもあなたの言う通りに動くのだろうか?
引き続き「パワフル社の営業改革」のケースをもとに、人が動くために必要な要素を考えていきたい。
課内ミーティング
異動の挨拶もほぼ終わりつつある4月後半。室井はシステムから4月の実績見込みを取り出して確認してみた。挨拶回りであまり数字を見ることができていなかったが、営業5課の売上見込みは想像以上に悪い。それだけでなく「ABCプラン」に基づくプロセスの数値入力も進んでおらず、また入力された少ない数字のトータルは支店の平均を下回るレベルだった。支店全体での説明会でもあれだけ説明したのに、と室井は思いつつ、再度課内に徹底しようと、週明けの課内ミーティングの議題に「ABCプランの展開」を加えた。
ミーティング当日。進行は慣例により課長代理が行う。担当毎に4月の売上見通しと5月の計画を共有し、状況を全体で把握していく。その後、販売促進部門からの新製品の説明など順調に議題が進み、最後に「ABCプランの展開」の順番となった。
室井は、「先ほどまでの議題の4月分の営業成績、結果がでないのは仕方ない。だが、結果に至るプロセス自体すらしっかりできていないようであれば、これは問題だと思う。今回、私はシステムから、売上に加えプロセス数値も確認したが、そのプロセスの数字が悪い。その上、入力すらされていないように思える。やるべきことがしっかりできていない、これは問題じゃないかと思うのだが、どう思う?」と発言した。誰もそれに答えない。
誰からの発言も出ないので、室井は仕方なく先ほどまで司会をしていた課長代理の秋山に向かい「秋山さん、どうなんだ?」と尋ねてみる。
秋山はバツの悪そうな顔をしながら、「もともと数字が上がっていないのはマーケット自体が厳しいという部分があります。我々のエリアは他の課とも比べても競争が激しいです。その上、昨年まで数字が悪く、今期は挨拶回りなどでバタバタしまして、メンバーの皆さんも時間がなかったんだと思います」と答えた。
室井は、それは答えになっていない、と思いつつも、これ以上追及するのは止め、「では来月はしっかりやっておくように」と議題と打ち切った。
課内ミーティングは後味の悪いまま終わった。室井は課のメンバーとの距離感を感じた。管理職になる前はこんな気分は味わわなかった。そして、課長という役職だからと言って、課のメンバーが動いてくれる訳ではないことに驚いた。
営業課長会議
翌日は西日本支店の営業課長会議が開催された。
支店に全部で10ある課の4月の営業成績の見込みが出そろった段階での開催である。昨日の課内ミーティング同様、4月の見込みと5月の計画が共有される。室井は赴任早々の4月初めの営業課長会議にも参加したが、その時は年度の実績がメインであった。営業数字にフォーカスが当たりすぎていてやや戸惑ったが、年度初めということもあり、前年度の結果を振り返る目的だったのだろうと理解していた。
今回の営業課長会議は、次長の司会のもと、営業1課長から順に説明が行われた。1課長は「支店長もご存じの通り、わが課は新商品で苦戦しておりまして…」と芳しくない状況を報告する。沖田支店長は部下に対し厳しいと本社にいた際は聞いていたが、営業1,2、3課の低迷した実績でも特段の議論もなく発表は進んだ。だが営業4課長の発表の途中で支店長からの厳しい声が飛んだ。「商品Cの実績はどうなっているんだ? 前回指摘したが、あれは大事だぞ」。営業4課長がしどろもどろになって答えるが、沖田支店長からの激しい叱責が飛び続ける。室井は、「これはなかなかの迫力だな」と、その場の雰囲気にのまれそうになった。さて、自分の発表はどう進めようか。まずは営業1,2課長が発表したことを真似して発表してみようか。
室井の発表の番になる。「支店長もご存じの通り、4月の売上見込み、プロセス数値も芳しいものではありません。特に…」と室井が続けようとした時に沖田支店長の大きな声が響いた。「ちょっと待て。ご存知の通りとお前は言ったが俺は聞いてないぞ。何でこんな数字が悪くなるまで手を打っていないんだ」
「いえ、今回の営業課長会議の資料を共有する際、事前にメールで私からコメントはつけさせて頂いておりましたが…」室井が反論する。
「俺が聞きたいのはそんな言い訳じゃない。今月、どうするんだってことだ。月末、押し込んででも、何とか数字を積み上げろ」支店長の厳しい叱責で室井の説明が終わる。
支店長からの厳しい指摘に軽いショックを受けながらも室井は先ほどまで繰り広げられた営業課長会議を振り返った。あれはまさに昔ながらの営業スタイルの縮図であった。これじゃ「ABCプラン」が浸透する訳がない。
支店長とのMBO(目標管理)
ゴールデンウィークも明けた5月初旬。家族と久々の旅行を楽しみ、十分リフレッシュして出社した室井。出社早々、沖田支店長とのMBOが設定されていた。
パワフル社では年間2回、半年間の目標設定と実績の振り返りのためMBOを行っている。このMBOは評価の半分を占める、極めて重要な人事評価の施策である。評価だけでなく、上司と部下との間で、何を達成すべきか、仕事の目的を議論し、合意を得る重要なプロセスでもある。
室井は、自身のMBOでの目標には、営業のプロセスを管理する数値をメインに設定し、最終売上などの営業結果は最小限に設けた。1年間をかけて、あるべき営業プロセスを営業5課で徹底していきたい、との意図だ。しかし、室井のMBOシートを見た支店長からは「こんな目標設定は認められない」との一言。
「なぜですか?プロセス重視は全社の営業方針でもあります。プロセス指標が入らないのは、これはおかしいです」室井が反論する。
沖田が語気を強める。「わからんのかね。うちの支店の状況が。そんな悠長なことは言ってられないんだよ。前年度は予算未達だった。これは私の営業人生でも初めての屈辱だ。予算とは達成すべきもの。2期連続で未達は許されない。誰が何と言おうと数字を上げてもらわないと困る。わかったか。君のMBOは再度やり直しだ。10日後に設定する。そのつもりでいろ」
MBOを終えた室井は、「ABCプラン」策定時、人事の評価指標として結果指標からプロセス指標に変更できなかったことを今更ながらに後悔した。あの時は人事部から、あまりにドラスティックな評価指標変更は全社に混乱を与える、と強硬な抵抗にあい、妥協案として、プロセス指標を重視するように、との営業本部からのガイドラインを出すことで決着した。
今となってはそれが仇となった。
支店長とも、そして営業5課のメンバーとも距離を感じている室井。完全に行き詰った状況だ。
新任管理職研修
5月初旬の週末。室井は2泊3日の新任管理職研修に参加した。管理職昇進前には社内研修で経営についての基礎を学んでいたが、今回の研修では組織を動かす立場として求められる「リーダーシップ」を中心に学ぶことになっている。前半は実際の事例である「ケース」を用いながら概念を学び、後半はその概念を実践に生かすべく、対人ファシリテーション(会議の進め方)を学ぶという仕立てだ。リーダーシップは以前研修で若干学んだこと、そして、先日の2つの会議で痛い目にあったこともあり、何か今後のヒントを得られるのではないかと期待していた。
実際に研修を受けてみると、期待以上の学びがあった。特に、前半のリーダーシップのケースは今までと一味違い、新鮮だった。それは「パワーと影響力(「Boundary Spanning Leadership」Chris Ernst、Donna Chrobot-Mason著)」という要素が盛り込まれていたのである。研修を担当する講師の話では、欧米のビジネススクールでもこの科目は取り入れられており、また特に欧米の幹部向けのプログラムではこの分野の知見が多く含まれているとの話だった。
人を動かすアプローチ
研修では2本のケースが用いられた。1つは営業担当からマーケティングマネジャーに昇進した主人公が、上司と目標設定で対立し、窮地に追いやられるもの。室井は、まさに今の自分と一緒だと、このケースに自分の姿を重ねた。もう1ケースは、海外での新規ビジネス立ち上げプロジェクトに関わった人物が、最終的にその事業の責任者として成功を収めていくもの。プロジェクトで始めたのは室井も一緒だが、今は1営業課長として苦しんでいる身で、自分とははるか遠くに思える。
2本のケースを用い、研修では人を動かすための共通したアプローチが提唱された。
ケースを用いた研修では、なるほど、このプロセスを用いると「ありたい姿」実現に向けて何がポイントなのか、難所なのかが明確になった。そしてさらに自分自身を振り返ってみると、なぜ支店の中でうまく「ABCプラン」を浸透できないか、理由もわかった。自分がやってきたことは「ありたい姿」から即、「実行」。ステップを飛ばしすぎているのだ。
人を動かす3つのパワー
特に、状況分析の段階では、人が動くための三つのパワーを踏まえておかなくてはならないという点が印象的だった。公式のパワー(権限、予算、報酬など)、個人のパワー(専門性、実績、コミュニケーション力など)、関係性のパワー(ネットワーク)である。支店長や営業5課のメンバーの立場から見れば、私など営業としての実績もなく、個人のパワーが圧倒的に不足している。誰も私の言うことを聞かない訳だ。
部下が思った通りに動かない、と考えたとき、ふと沖田支店長のことが頭をよぎった。
「支店長もきっと、俺が思うように動かない、と思っているんだろうなぁ」
かといって、支店長の言う通りにMBOで営業結果をメインにするのは、自分の進めてきた「ABCプラン」には矛盾する。
研修後、支店長とは再度MBOが設定されている。MBOで目標自体が握れないと、今年度の自分自身の評価にも関わる。営業の数字は芳しくない。メンバーの動きも悪い。今回の研修でこの状況を打破できるものは何だろうか? 室井は考えを巡らせた。
ポジションと実力のギャップ
昇進や異動、転職に伴い、それまで輝いていた人物が急に輝きを失うことがある。本人の持つ力と新たな仕事で求められる力にギャップがある場合、往々にしてこのようなことが起こる。
室井の場合は、企画・本社スタッフとして評価されていた。一方で自分自身の営業スキル、そして部下を引っ張る経験が少ない。営業5課長というポジションで業績回復、しかも「ABCプラン」の浸透の営業課長の立場で担う、という状況から、室井のパワー不足は明らかである。だが、パワー不足を自ら認識し、必要なパワーを獲得・蓄積し、または持てるパワーを最大限、効率的に活用することで克服することもできる。
ボス(上司)をマネジメントする
上司との関係のあり方
部下に対してどのようにリーダーシップを発揮するか。MBAや企業研修でも人気のテーマだ。部下に対しての「リーダーシップ」を学ぶ機会は多い一方で、「上司」との関係のあり方について考える機会は少ない。ほぼ全てのビジネスパーソンに「上司」が存在するにもかかわらず、である。
仕事で実績を上げていく上で、上司の存在を無視して、物事を前に進め、実績をあげていくことはできるだろうか?
どんなに凄い人材でも、仕事を進める上で上司を無視することは難しい。仕事では上司に依存することは多々ある(同様に上司もあなたの活動に依存している)。承認、決裁、サポート。上司との関係は大事であるが、では、上司との良好な関係は築けているだろうか?
上司も、自分も、感情を持つ人間である。当然、上司と、合う・合わないで悩んだことのあるビジネスパーソンも多いだろう。だが、合わないからと言って、上司とあなたは相互に依存しあっている以上、上司を無視するわけにはいかない。では、どのように上司と付き合えばよいのだろうか?
室井の反省
今まで、自分の「やりたいこと」実現のために、自分の主張ばかり繰り返し、部下や支店長と対立していた。だが、相手の主張に耳を傾けただろうか。そもそも相手がどんなことを思っているか、聞き出そうとしただろうか? 研修から戻った室井は、西日本支店に赴任してからの自分の行動を振り返った。
研修では相手との向き合うスタンスを学んだ。
・協力的な態度をとるべきか、否か?
・自分の意見を主張すべきか、否か?
今までは、相手に対し協力的ではなく、単に意見を主張しているのみだった。これでは「衝突」は避けられない。衝突を避けるには2つ。自分の主張を退けるか、相手と協力的になるかのどちらかである。自分の主張を退けてしまえばそれは単なる「逃避・妥協」。そうではなく、双方に主張をしつつ、協力をしていく、即ち「協働」を目指さなければいけない、というものだった。
言うのは簡単である。だが、「協力」「協働」といっても、何をどう協力的に進めればよいのだろうか?そんなことを考えつつ、室井は支店長室に目をやる。
支店長の仕事ぶり
支店長室は室井の席から遠く、フロアの反対側にある。ドアは常に開いている。今まで気づかなかったが、他の営業課長たちはひっきりなしに支店長室に入っていく。自分は急ぎのことでもない限り、支店長にはメールを送るぐらいだな、と振り返る。支店長からのメールの返事はあまり来ない。たまに来ても簡単なものだけだ。急ぎで返事が欲しい場合だけ、室井は支店長に直接確認をする。
それにしても他の営業課長には、そんなに支店長と相談することがあるのだろうか?
そんな疑問を抱えていたある日、室井は偶然、支店長秘書の柏木と帰りの電車で一緒になった。室井は日頃の疑問を柏木にぶつける。
柏木の話では、どの営業課長の来訪も重要な要件ではないとのこと。だが支店長は顧客1社1社の些細な動向でも気にするので、多くの営業課長は問題が起きそうな場合は事前に相談をするのだそうだ。
わざわざ部屋に行かないでもメールで報告すればいいんじゃないか、と室井が言ってみると、柏木は、「支店長は書類やメールの簡潔な情報だけでなく、そこでは書かれていない背景も気にされる方です。ですから、文書だけではなく、必ず皆さん、口頭で説明を補足しています」と答えた。
前回の営業課長会議で、メールで報告したにも関わらず、支店長から「聞いてない」と激怒された理由がわかった気がした。支店長が求めるのは、単なる文字情報だけではなく、直接対面で内容を確認する機会だったのだ。
顧客との価格交渉
研修から戻った室井に早々に難題が降りかかった。営業5課の顧客の中では取引規模の大きいプライス社から値引き要請が来たというのだ。室井は担当である入社3年目の青島を呼び、状況を聞いた。その上で青島をサポートしようと、室井は価格交渉に自分の同行を申し出た。だが青島からは思いもよらない反応が返ってきた。
「室井課長の同行は遠慮します。決裁権のある課長が出ていったら、その場での意思決定を求められます。こちらが想定しない条件を突きつけられるかもしれません。その場合、即断するのは難しいでしょう。課長が出ても持ち帰る、となったら課長は以後、軽く見られます。それではいざという時に課長は何の役にも立ちません。一方で、課長が変にいいところを見せようとして、その場で安い価格を認めてしまったら私の顔が潰れます。担当もいらないですよね。なのでここは、まずは私だけで交渉します」
ずけずけと言う奴だなと思いつつ「なるほど」と感心する室井は「でも、価格交渉は大丈夫か?」と尋ねる。
青島は、「先方は5%値引きと言っていますが、競合のロジカル社、ブレイン社の価格レンジから判断して、この規模の取引に5%値引きをしているところは皆無です。恐らく3%、どんなに高くても4%で収まると思います。我々の原価からしたら、4%までで済めば十分利益は出ます。なので、4%までのレベルで相手と交渉し、このレベルだったら上司を説得して何とかするから、この場で即決して欲しい、と交渉します。ですので課長、事前に4%までの値引き、ご了承頂けますか?」と、逆に室井に意思決定を迫る。
「今回の対応、納得だ。だが3%を超える値引きは支店長の承認が必要だ。私から支店長に相談してみるよ」と室井は答えた。
いつもならメールで支店長に相談する室井だが、今回は直接、相談してみようと支店長室に向かう。
歩きながら室井は、青島の仕事の進め方に感心していた。自分よりよほど、仕事の進め方を知っている。課長である自分は大した「権限」は持っていないが、それでも相手には、持っているぞ、背後に控えているぞ、と思わせておくことで営業上、有利に使えるわけだ。
沖田支店長への相談
「支店長、ちょっとよろしいですか?」室井が支店長室のドアをノックする。
「何だ、室井君か。珍しいな。どうした?」と沖田支店長が顔を上げる。
「実はプライス社との取引でご相談があります。同社から今年度、5%の値引き要請が来ています。以前から大口ユーザーということもあり昨年度も価格対応したようですが、数字は思ったほど行きませんでした。同社の状況を考えると今年度も同様かと思います。担当の青島君とも検討したのですが、あの規模で、5%の値引きに応える競合もほぼないだろうということで、4%までの値引き、できれば3%で話をまとめたいと考えています。ついては、4%までの値引き、支店長にご了解頂ければと思い、相談に参りました」
どれどれ、と沖田は室井の持参した試算表に目をやりながら電卓をはじく。
「4%か、いいだろう。だが値引きしたところで去年と同じぐらいの売上というのはつまらん。プライス社は複数購買をしているな。今回の要請はプライス社でのうちのシェアを高めるいいチャンスだ。もし前年より20%多く引き取れるなら更に1%、40%なら2%、60%なら3%まで。つまり、最大7%までの値引きを認めよう。プライス社についてはその分までの値引き幅をお前に預ける。しっかり数字を確保しろ」
値引きで売上を上げようという支店長の考えに室井は戸惑いながらも、支店長の判断の速さ、商売感覚に室井は素直に感心した。
室井は、支店長から満額以上の回答を得たものの、この値引き幅だけで勝負するのではなく、プライス社のニーズをしっかり探った上で、どう取引を深化させるか、青島と話し合ってみようと考えていた。
関係改善
プライス社との交渉は、支店長のアドバイスもあり、室井・青島の想定以上の30%増まで拡大した。室井は、プライス社の値引き対応以降も、支店長に何度も報告の機会を持った。その甲斐もあり、相互の理解が進んだと感じつつある。このあと、5月中旬に、室井の二度目のMBOが行われる予定だが、支店長には、営業5課への展開も含め、ABCプランについて訴えるつもりであった。
上司との接し方
上司との接し方で主に以下のような2つのスタンスがある。
- 上司とは重要な案件のみ接点を持つ。細かいことは言わなくても、努力していれば上司は必ず見守っていてくれる
- 細かいことでも上司にちゃんと報連相をしておくべきだ。接点を持たない限り何も上司には伝わらない
あなたはどちらのスタンスだろうか? そしてどちらのスタンスが望ましいのだろうか?
実は、両方のスタンスとも正解とは言えない。
上司との接し方を、自分の過去の成功体験に求める人は多い。自分の得意なやり方と、上司の求めるやり方とが合い、うまくいった経験から考えるというものである。例えば今回の室井は、Eメールで報告しておけば上司は理解している、と思いこんでいた。恐らく本社時代はそのスタイルで良かったのだろうが、それは支店長の求めるやり方ではなかった。
それでは、上司の求めることを理解し、それに合わせればよいのだろうか?
実際には、上司に対する思い込み(例えば上司は忙しいので些細なことで時間を取ってはいけない)が理解を妨げる場合がある。そもそも上司が何を求めているか考えることすらしない場合もある。運よく上司の求めるものに気づけたとしても、その要求に応えるために自分自身のやり方を変えることも難しい。どんなに優秀な人材だとしても、上司を巻き込まず、独力で実績をあげることは難しい。一方で、プライス社との交渉のように、上司からの支援を的確に引き出すことで、実績を積み重ねていくことも可能なのである。そしてこれは、部下にとってメリットがあるだけではなく、上司もまた部下の実績に依存している。上司と部下は相互依存の関係にある。
ここではまず、上司との良好な関係を築くために、何を理解すればよいかを考えたい。
ボス・マネジメント
ハーバード・ビジネス・スクールのジョン・コッター教授は、論文「上司をマネジメントする」(ジョンP.コッター、ジョン J.ガバロ(「ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー」2010年5月号掲載))で、上司との関係を2つの観点を分析する必要があると説明する。
- 上司や上司の置かれた状況理解:目標や目的、強み・弱み、ワークスタイル、上司へのプレッシャー
- あなた自身やあなたのニーズの評価:強み・弱み、ワークスタイル、上司への依存傾向
上司について分析するだけでは不十分で、あなた自身のことも上司と同様、知り抜くことが重要である。上司の要求の背景は何か?上司の要求に自分はどのような強みを使って応えれば良いのか。無理は長続きしない。もし、あなたの強みをもって上司の要求に応えられない場合はどうすればよいのだろうか?その場合は、当初は上司に合わせつつ、徐々に自分のスタイル・強みを上司に理解してもらうことが必要になる。つまり、上司とあなたとの間で、相互に期待し合う関係を作り上げていくのである。
上司と部下の関係について、P・F・ドラッカーは、著書「経営者の条件」の中でこう語っている。
「上司もまた人であって、それぞれの成果のあげ方があることを知らなければならない。上司特有の仕事の仕方を知る必要がある。単なる癖や習慣かもしれない。しかしそれらは実在する現実である」
「人には、「読む人」と「聞く人」がいる。(中略)読む人に対しては口で話しても時間の無駄である。彼らは、読んだあとでなければ聞くことができない。逆に、聞く人に分厚い報告書を渡しても紙の無駄である。耳で聞かなければ何のことか理解できない」
上司の言動、些細な日常の行動から、室井のように、沖田支店長が結果・数字にこだわる理由、室井の報告を読んでいなかった原因がわかるのである。
実行への第一歩
「実行」への落とし込み
組織おいて目指すべき目標をクリアに設定することは重要である。しかし、目標を設定しただけでは、成果に繋がらない。成果を生み出すためには実行が必須である。
「実行」が重要であるにもかかわらず、時として、自分自身のマネージするチームですらうまく動かすことができない場合がある。今回は、さらに3つのパワーに踏み込み、どのようにパワーを行使するか、また、持てるパワーが限られる場合にどのように対処するかを考えたい。
室井の目標設定
支店長と良好な関係を築きつつある室井は、自分の課の目標設定を支店長と握ることとした。支店長に伝える際、まずはじめに、営業5課の数字を何とかしたいという気持ちを訴えた。そして、営業5課の数字は前任者の頃から落ち続けており、従来の施策の延長では挽回は困難で、従来にないやり方、つまり「ABCプラン」の実践が必要であると説得した。
営業5課の状況は、室井が沖田支店長に頻繁に報告を入れていた。マーケットの厳しい状況、経験の浅いメンバーが多いことなど、営業5課の事情は支店長も認識している。そのため、室井の提案した取り組み、そしてプロセス重視の目標は、抵抗なく受け入れられたかに見えた。
安心しかかった室井に対し、沖田支店長は「いつまでだ?」と訊ねる。
「結果が出るまで、半年はかかると思います」室井は答える。
「半年か。待てないな。もしABCプランとやらが本当に効果のある施策なら、すぐに効果が出るんじゃないのか?3ヶ月間、つまり8月までの数字は我慢する。だが9月単月の数字では何とか結果を出すように。そして下期分で、上期のショートをカバーするように」
支店長も3ヶ月、プロセス重視で良いと譲歩してくれた。ここは室井も飲まざるを得ない。「わかりました。進捗は都度、ご報告いたします」
期間が短く厳しいと室井は感じつつも、支店長とは何とか数字は握ることができた。だが、本番はこれからだ。3ヶ月で、営業5課への「ABCプラン」の浸透、そして単月での目標達成まで持っていく必要がある。まずは、目標と施策をメンバーと握ることが先決だ。
室井はこれからのプランを考え始めた。
個々人の状況を分析する
室井は以前、チームのミーティングにて「ABCプラン」を徹底すると宣言し、そして営業5課のメンバーからの無言の反対にあうという苦い経験がある(第2回連載)。反対や冷たい反応は周囲にも伝播する。白けたムードにしてはならない。どうすればよいだろうか?
上司・部下ともそれぞれパワーを持っているという新任管理職研修での学び、そして支店長との関係構築での成功体験も踏まえ、室井は考えた。やはり、それぞれの担当者がどのような想いを持っているのか、どのようなスタンス・特徴があるのか、それら状況を把握して、一人ひとりと向き合うことが必要なのではないか。いきなり全体で議論してしまうと前回の二の舞になると室井は考え、時間はかかっても一人ひとりと面談をすることにした。
営業5課のメンバーとの面談では、話題にも細心の注意を払った。室井が聞いたことは3つである。「営業5課の状況をどう思うか?」、「 課題は何か?」、「どうすべきか?」である。目標設定の話は敢えて出さなかった。目標の押し付け感をなくすためだ。
状況については、どの担当者も口を揃えて「うちの課は競争も厳しいし、大変です」と答える。よくない、という認識はあるようだ。さらに、「ここ数年、ずっと厳しい状況でした。前の課長の時も、その前も。ずっと厳しい状態が続いています」と答える担当も多い。悪い状況に慣れている、そして打破する方向が見つからないように室井には感じられた。以前の室井であれば「それならABCプランを…」と言いだしたはずだが、ここはぐっとこらえた。しっかり部下の言うことを聞こうと思った。
メンバーからのコメント
さらにメンバーの話を聞いていく。室井が聞くことに徹しているというのはメンバーにも伝わったのか、様々な意見が出てきた。
・「今のまま続けるべきですね、自分の実績はあげているので。周りの人間はどうも頑張りが足らない。営業と言うのは、お客さんに鍛えられてなんぼのものです。それを変に頭でっかちにしちゃ、育ちません」(ベテランA氏)
・「営業5課の現状は、そりゃよくないです。ですが私のように実績を出していける人間もいる。今の若いもんは頑張りが足りないんです。頑張らない割に、新しい手法なんかに飛びつきたがる。そんなことじゃなく、足で稼ぐという基本をもっと徹底した方がいいんじゃないですか?お客さんと話していればいくらでも商談の機会はある。商品力もあるし、価格競争力も劣っているわけじゃない」(ベテランB氏)
・「今までうちの会社は色んな営業施策に飛びつきました。結果としてどれも不徹底で、うまくいってません。そしてやはり、もともとの足で稼ぐ営業スタイルに戻ります。どうしても慣れたスタイルの方がやりやすいです」(中堅C氏)
・「そりゃ、新たなスタイルを出してきた背景はわかります。ですが、それにチャレンジして成績を落とすのは避けたいんです。ただでさえ実績が出てないので、これ以上数字を落とすとやばいので」(中堅D氏)
・「実績はなかなか出ません。支店長も、前任の課長も、先輩も、みんな足で稼げといいます。必死に汗をかいて営業してますが、訪問件数は稼げても、実績に繋がりません。既存の営業先によく訪問しますが、行ってもあまり大きな商売をもらえないですし」(若手E氏)
・「ただでさえ訪問活動が忙しいのに、新たに何とかプランとか言っても、そこまで手が回りません」(若手F氏)
後ろ向きなコメントが多い。厳しい現状を認識しながらも、それに対する打ち手が見いだせていない、と室井は感じた。しかし、「ABCプラン」を推進するには、抵抗も予想された。進めていく上での突破口はないか、室井はメンバー全員のコメントを見返す。
メンバーのタイプ分け
メンバーとの面談メモを見返しながら、室井は、どのように「ABCプラン」を進めていくかを考える。コメントを見る限り、積極的に反対はしないものの、実際には積極的に取り組みそうなメンバーは極めて少ないと室井は考えた。多くのメンバーは面従腹背、つまり口では分かったと言っても何も進まないことになるのではないか、と危惧を覚えたのだ。
そこで室井はメモをしたコメントをもとに、部下を3つのタイプに分けてみた。
■タイプ1 ベテラン
以前のやり方で実績をあげているタイプだ。言葉の端々に、「課長はわかってないなぁ」「営業は要は数字なんだよ」という気持ちが垣間見られる。営業5課の中で数少ない営業実績を出せる、自信を持っている部下たち。
■タイプ2 中堅
何とかしないといけないと思いつつも、うまくいかずすぐに昔のやり方に戻してしまうタイプだ。過去の失敗経験が強く、新たな施策に尻込みをしている部下たち。
■タイプ3 若手
何年かの営業経験があるものの、営業上のポイントがつかめず苦労しているタイプだ。足で稼げと言われ忙しくしているものの、実績があがらない。効率悪く訪問を繰り返し、時間もない部下たち。
どのタイプから巻き込むべきか?
室井は1週間をかけ、営業5課10人全員の話を聞いた。全員が従来の足で稼ぐ営業スタイルをとっている。「ABCプラン」の浸透、そして早期のプラン浸透と実績向上のため、室井にできることは何だろうか?
沖田支店長からは3ヵ月間の猶予をもらったとはいえ、時間は限られる。「ABCプラン」を前に進めるには、そして今の室井のパワーから考えれば、全員をいきなり巻き込むのは難しいだろう。だとすると、まずは推進役となる人を絞り、彼らをてこに組織全体への波及を図ったほうが現実的、かつ効果的であるように思える。
すると、誰をターゲットとすべきだろうか?
部下との力関係
室井は、自分と営業5課のメンバーとの力関係から、誰から働きかけをしようか考えてみることにした。
上司であれば、自らのチームを動かすのはたやすいように思われるが、実際に新たなことに取り組む場合など、表立ってではないものの抵抗を受けることもある。理屈では上司の言い分は理解しつつも、自分自身のやり方を変えたくない、あるいは、求められる能力、スキルが不足しており変化に対応にすることができない人間も少なくない。
全員を動かせるパワーがないと認識した場合、無理に全員を動かそうとしないことである。相手は全力で抵抗してくる場合もあれば、口だけは賛成と言いつつ何も変わらないことがある。自分の力で変えられる部分に、まずはフォーカスすべきである。
誰をターゲットとすべきか?
上司・部下の関係は相互依存しあう。部下の上司への依存度が低い場合(例えば部下が独力で成果をあげられる場合など)、上司は軽くみられる場合がある。通常は上司が強いと思われるが、力関係は一方的にどちらかが強いということは言えない。
タイプ1のベテランの部下との力関係はどうであろうか?部下は営業経験も豊富で、実績もあげている。恐らく顧客も熟知しているであろう。役職を源泉とする「公式のパワー」はないものの、実績、経験といった「個人のパワー」を持っている。そして顧客や、支店内のネットワークなど、「関係性のパワー」も豊富であると考えられる。動かすには手ごわい相手である。
一方、室井の持てるパワーは、「公式のパワー」、そして最近は支店長との関係改善で「関係性のパワー」も徐々に大きくなっている。しかし、営業面での実績を出しておらず、管理職になっての日も浅い。このタイプの部下を動かすのは、短期的には、難しい。タイプ1の部下を動かすには、室井自身のパワー(特に営業面やマネジメント面での実績)を獲得して、部下から一目置かれる必要がある。これには時間が必要だ。
タイプ2,3の部下と室井の関係はどうだろうか?パワーという面では対抗が可能である。営業面の実績が室井にないと言っても、相手にもない。そこで、有効に使えるパワーを見出したい。
タイプ1の部下に対し、室井には「個人のパワー」は相対的に少ない、と書いた。本当に室井には「個人のパワー」は少ないのだろうか?「個人のパワー」を分析すると、室井には、営業面ではなく、問題解決スキル、マーケティングの専門性が考えられる。営業5課のメンバーの効率の悪さを考えると、恐らく営業活動を通じて、セグメントやターゲットの議論が欠けているように思われる。この室井の専門性を軸に、タイプ2,3の部下(特に新たな取り組みに抵抗の少なさそうなタイプ3の部下)の信頼を勝ち取ることも有効である。
「影響力」の発揮
強く説得されたわけでもないが、何かに「影響」を受け、無意識のうちに意思決定をしてしまった経験はないだろうか?
例えば、
- 既に同業他社の多くが導入している財務システム
- その分野で世界的な権威である研究者による推薦のある製品
- 頻繁にサンプル提供を申し出るサプライヤー
といったものに対し、好ましい印象を持ち、導入/購入してしまったということはなかっただろうか。ビジネスの現場では、多数の人間が、経済合理性に基づき意思決定を行なおうとする。が、すべての意思決定の局面で、論理的、合理的に判断をしているとは言い難い。実際にはかなりの割合で、他の何かの影響によって、よく考えみると合理的ではない決定を下しているものなのである。
室井の活動をさらに加速する場合に有効な考え方として、今回は「影響力」について考えてみたい。人間は、意思決定をする上で、必ずしも合理的に、論理に基づいて意思決定をするわけではなく、無意識に意思決定をしてしまう場合がある。その決定の多くは、他者からの「影響力」によるもなのだ。では「影響力」とは何か。社会心理学の研究で、返報性、権威、コミットメントと一貫性、希少性、好意、社会的証明の6種類があると言われている。冒頭の、同業他社の多くが導入する財務システムは「社会的証明」を、世界的な権威である研究者の推薦は「権威」を、頻繁なサンプル提供は「返報性」という原理の影響を受けている(※「影響力」に関する詳細説明は後述)。
今回の連載では、どのように影響力を用いれば、室井が「ABCプラン」の推進に若手を巻き込んでいけるかを考えてみたい。
営業面の課題
パワフル社の営業では、それぞれの担当者が数百社の営業先担当リストを持っている。このリストには、現在取引がある企業、かつて取引のあった企業、さらには一度も取引のない企業も含まれる。取引のない企業には、過去に訪問・提案履歴があるところもあれば、アプローチすらしていない先もある。その中で営業担当者は、既存の取引を維持しつつ、新規案件を獲得していく必要がある。
今回、室井が「ABCプラン」に初めに巻き込むメンバーとして選んだ営業5課の若手メンバーは、忙しく活動しているものの、受注という成果がでていない。事前の面談を通じて室井は、若手に限らず、営業5課の営業の進め方に根本的な問題があると考えていた。室井の考える問題は、営業における「バッドサイクル」である。
営業実績を拡大するには新規受注が必要だ。しかし新規受注ができないので、多くの担当先にアプローチしようと訪問件数を増やす。訪問件数を増やすことで1社あたりを疎かにしたり、脈の少ない先にもアプローチすることになり、受注率が下がる。受注が少ないのでそれを補おうとさらに訪問件数を増やす―これが営業におけるバッドサイクルだ。特にパワフル社社内には「営業は足で稼げ」という文化が浸透しているので、このバッドサイクルに気付いていても誰も正面切って疑問を呈しづらくなっている。
問題点はある程度見えていたが、「ABCプラン」を若手メンバーに伝えるのは、今までのやりかたを頭ごなしに否定することになりかねず、相手の反発を招く恐れがある。論理的には正しいが、相手は気持ちが受け入れないだろう。西日本支店へ異動してきてから室井は、何度も、自分の考えの伝え方で痛い目にあっている。今回、どのように伝えたらいいのだろうか?
若手とのミーティング
今回、室井は、自分の意見を押し付けるのではなく、メンバーに考えさせ、自分の意見を出してもらうことで、納得感を持ってもらう進め方をしようと考えた。若手メンバー4名とのミーティングの場で室井は、「どうしたら受注に結びつく訪問ができるだろうか?」とメンバーに投げかけた。メンバーからは、「やみくもに行くよりは筋のよさそうなところに訪問した方がいい」「受注に持っていくためには事前に自分なりのストーリーを描いておくことが必要」「相手からニーズを引き出すことが重要」という発言が返ってきた。室井は、メンバーが頭ではわかっていることに、安心した。
さらに室井は「ではなぜそのような訪問が今、出来ていないのだろうか?」と問いかけた。問いかけて、詰問調に聞こえたのではないかと室井は思い、「これは、君たちを責めようということではない。むしろ、それを妨げることがあるなら取り除こうという、前向きな話なんだ」と付け加えた。
メンバーからは、「やはり何社も回らないといけないので時間が不足しがちになります」「1日3社、週に15社の訪問はどうしてもきついです」「自分たちのように実績があがらない営業は、もっと足を使えと言われて、とにかく動くしかないんです」との声が相次いだ。自分は1日3件などと一言も発していないにも関わらず、なぜこのような目標設定をしているのか、室井は疑問に思ったものの、本来のテーマについての議論に室井はフォーカスし、若手のメンバーの受注を高める工夫を引き出そうとした。
そこで室井は「15件といった頻繁な訪問活動では、1回1回あたりの提案準備が疎かになるということだな。では、何件ぐらいの訪問だったら、しっかり準備して望めそうだろうか?」と問いかけた。若手メンバーからは、「半分ぐらいでしょうか」との声があがった。
室井は「半分の訪問回数にして、準備の時間を捻出すると考えよう。では、捻出した時間を何にあてようか?具体的にはどんな準備ができるだろう?」と更に問いかけた。メンバーからは「訪問先に合いそうな提案内容を考える」との意見が出る。さらに「それはどうしたら考えられるんだろうか?」というと、「やはりお客さんのニーズをつかまないと」と答える。
そこからは「ABCプラン」の内容と同様だ。室井は「ニーズはどのようにつかむのか?」「顧客にある程度共通するニーズはあるのだろうか?あるとすればどんなことか?」「共通するニーズがありそうなお客さんはどこだろうか?」と、メンバーに問いかけ、議論を尽くした。この議論を通じて「ABCプラン」の基本的なコンセプトがメンバーに伝わったと室井は確信した。
ミーティングがほぼ終わりに近づいた時、メンバーから、「室井さん、ここまでやるんなら、半分の訪問件数でも厳しいですね、1日1件が限度だと思います」との発言が出た。他のメンバーもうなづいている。室井は「わかった。訪問は1日1件に絞ろう。その代わり、訪問した先は何がなんでも受注しよう」と答えた。
「ABCプラン」の実践
室井は、若手メンバーとの「ABCプラン」を実践し始めた。膨大な担当顧客リストからのターゲットの絞り込みでは、ターゲットの選び方の基準を室井が示し、メンバーが当てはまる企業をピックアップした。さらに、アポイントを取ったターゲット先に対しての提案内容の検討にも室井は関わった。「ABCプラン」では標準的なニーズのパターンとそれに対しての提案内容が用意されている。したがって、顧客を、以前に議論して明らかにしたニーズごとにグループ化し、そのグループに対応した提案を選択するようにした。この方法は、一社一社、ゼロからニーズを考え、その内容に応じた提案を考えるより、各段に効率があがった。
若手メンバーは、室井との取り組みにより、1週間で訪問する会社を3分の1に減らした。1日1件だ。訪問する企業を絞ることで、ABCプランで用意された提案内容から、さらにその企業特有の事情を勘案し、訪問当日のやりとりまでの綿密な準備が可能となった。実は、メンバーは活動量を減らすことに一抹の不安を感じてもいた。活動量を落とす代わりに提案の質をあげるということに、頭ではわかっていたものの、そこまで減らして本当に大丈夫か、ニーズと提案内容をここまで類型化してしまい、本当に受注できるのか、疑問は尽きなかった。しかし、最終的には自分たちで考えて決めたことであるからと、自分で自分を納得させたのであった。
一方、新たな営業活動に向け、室井も悩んでいた。若手メンバーは、最初の1週間で室井との検討を終え、翌週から訪問を本格化させることになっていた。室井は、メンバーに訪問を任せるべきか、それとも自分も可能な限り同行すべきか、迷っていた。ここで失敗はできない。後がない状態だ。室井は、何としてでも成功させるために、自分も同行することにした。
実際に室井が同行することで、室井にも新たな発見があった。顧客とのコミュニケーション手法が、若手メンバー間でもばらつきが多かったことである。嬉しい誤算は、なかなか営業成績の上がっていない若手の青島が、思いのほか、相手に問いかけ、ニーズを引き出すことがうまかった点である。彼の方法は室井自身にとっても勉強になる部分が多かった。室井は青島のやり方を他の若手3名にもそれを広げようと、営業の行き帰りに青島のやり方をもとにアドバイスしてみた。しかし、若手3名の改善はあまり見られなかった。むしろ、室井が言えば言うほど、委縮するように感じられた。
そこで室井は一計を案じた。室井が3名の若手に説明するのではなく、青島の商談の場に他の若手を順に同行させることにしてみたのだ。実際に自分と同じ若手である青島の商談している姿を見ることで、3名の若手の奮起を促す結果となった。相手からニーズを引き出した上で、それにあった順番で説明するという、ちょっとしたコツをつかみ、顧客に提案の意図を的確に伝えることができるようになった。その結果、室井も、若手メンバーも、顧客からの手ごたえをつかみ始めた。
緒戦での勝利
室井が営業5課で「ABCプラン」に本格的に取り組んで2週間、室井は可能な限り、同行した。室井と同じ時間を過ごすことで、若手のメンバーにも室井の熱意や思いが伝わっっていった。一方で、同じ課の他のメンバーからは、室井は一部の若手を集めて自分のやりたい「ABCプラン」だけをやっている、本来の職責を果たしていないのではないかとの声が聞こえて来ていた。まだ実績が出ていない状況で、この指摘は痛かった。
翌週月曜日、若手メンバー青島のもとに顧客から1本の電話が入った。顧客からの受注内定の連絡だった。報告を受けた室井は、「青島君、凄いじゃないか、受注内定だって」と隣の課にも聞こえる大きな声で青島を褒めた。たった1件の受注内定ではあったが、今まで実績を出せなかった青島が、室井のやり方で2週間で受注内定までたどり着いたことに周囲は驚いた。それまで室井のやり方に批判的だった周囲の空気を、これで落ち着かせることができた。
受注は、青島だけではなく、他の3名の若手にも広がった。訪問件数を絞った分、受注確率は格段に高まった。営業成績が低迷していた若手4名の受注実績向上は、営業5課の中でも徐々に知られるようになってきた。室井は若手の成長を頼もしく思った。
影響力の武器
冒頭で解説した「影響力」について解説したい。社会心理学者であるロバート・B・チャルディーニの研究によれば、人が無意識のうちに人に動かされてしまう原理として以下の6つがあるという。
返報性 :恩恵を受けたら報いなくてはならないと感じること
社会的証明 :他人の行動を指針とすること
好意 :好意をもつ相手ほど賛同したくなること
権威 :専門家に指示を仰ごうとすること
希少性 :手に入れにくいものほど求めたがること
コミットメントと一貫性:自分のコミットメントや価値観と一貫した行動をとろうとすること
>※ロバート・B・チャルディーニ著「影響力の武器」から加筆修正
今回、室井は「ABCプラン」を進める中で、若手メンバーから新たな営業手法や目標数値を設定する際に「コミットメントと一貫性」の原理を使っている。人は、一度自分がある決定を下すと、そのコミットメントに対し、一貫性をもって行動しようとする傾向がある。今回の場合は、若手メンバーは、営業の方法論や目標を自分で決定するよう促された。その内容が結果として「ABCプラン」に即したものだったため、今回の活動への強いコミットが生まれた。また、若手メンバーの実地教育に、同じ若手である青島の商談の様子を見学させ、自分たちのやり方の見直しを促した。これは、「社会的証明」の原理を応用したもので、自分と類似した人が示す行動に影響を受けやすい、という原理を使っている。
影響力は、自らのパワーが限られる場合、特にパワーを獲得する余裕がない中で相手に動いてもらわないといけない場合、効果的である。「限定10品」「サンプル無料」「○○大学教授の推薦」といったセールス活動を頭に思い浮かべる読者も多いだろう(順に、「希少性」「返報性」「権威」という影響力が使われている)。しかし、注意も必要である。この手の原理を「意図的に」使われたことに対して人間は不快感を抱くものでもある。「影響力の武器」を多用しすぎると、かえって「好意」を損ねたり、「個人のパワー」の源泉である「信頼性」や「人間力」を損なうことになりかねないことを私達は銘じるべきである。
広がる「変革」
変革に取り組む上での障害としてよく挙げられるのが、「現状に執着した組織」「限られた資源」「スタッフの意欲不足」「既得権益を守ろうとする有力者たちの 抵抗」の4つである。どれも難題である。しかし、このような厳しい障害を乗り越え、短期間で変革に成功した事例がある。1990年代後半の、ニューヨーク 市警察本部のウィリアム・ブラットンによる取り組みである。犯罪率の増加に歯止めのかからなかったニューヨークを、ブラットンは2年も待たずして全米の大 都市のなかで最も安全な街へ変えてしまった。このブラットンの変革事例を、『ブルー・オーシャン戦略』の著者であるW・チャン・キム、レネ・モボルニュが 『ティッピング・ポイント・リーダーシップ』という論文にまとめている(ティッピング・ポイントとは「臨界点」の意)。
ティッピング・ポイント・リーダーシップとは、「ある組織において、信念や内的エネルギーの強い人の数が一定の臨界点を超えると、その瞬間、組織全体に新しい考えが急速に広がり、きわめて短期間で抜本的な変化が起こる」という考え方である。
室 井の今までの取り組みは、営業5課内の、一部の成功をもたらしたにすぎない。室井の隠れたミッションである、西日本支店全体への「ABCプラン」浸透に向 けては障害が多い。そこで今回は、ティッピング・ポイント・リーダーシップを応用して「スタッフの意欲不足」という課題を克服してABCプランを推進する 室井の姿を追ってみたい。
支店長への報告
営業5課の若手による「ABCプラン」の実践により、新規受注が拡大していることを室井は早速沖田支店長に報告した。支店長と室井は「ABCプラン」の成 果を3ヶ月間で出すと握っていた。今はまだその半分も経過していない。1日3件だった訪問回数を1件まで大胆に絞ったこと、そして今まで実績のあがらな かった若手3名が予想外に早く結果を出したことに、支店長の沖田は驚きを隠せない。
支店長は、なぜ驚くような成果を出せたのか、「ABCプラン」のポイントについて室井からの説明を聞き、その効果を確信した。そして支店全体に「ABCプ ラン」を広げるために勉強会を開催してはどうかと室井に提案した。異動直後の室井であればすぐに飛びつくありがたい言葉だった。しかしこの数カ月、社内で の抵抗にあっていた室井は、このタイミングで全支店での勉強会を開催することは、時期尚早であると考えた。
営業5課内でも今回の若手の成功は一時的だとも見られている。他の課にも実績はまだ伝わっていない。支店内で広がるベースを作ったうえで、飛び道具である 「勉強会」を使って一気に展開すべきだと室井は考えた。そのためには、営業5課での拡大、そして営業5課以外の1つの課での成功事例が必要である。少なく ともあと1カ月半は必要だと室井は判断した。室井は「今のタイミングでは勉強会は時期尚早です。仕掛けるタイミングが来ましたらご相談させてください」と 支店長に返答した。
営業5課での展開
3名の若手に絞り「ABCプラン」を成功させた室井は、営業5課内での賛同者拡大に取り組んだ。メンバー全員と個別に面談を行ない、趣旨を説明する。取り 組みへの強制はせず、やりたいか、やりたくないかはあくまで本人の自主的な判断に任せた。室井との面談の結果、ベテランの2名以外は室井のやり方に賛同し た。この層は、もともと現状には問題意識があったものの、過去、新たな取り組みで失敗をしており、変革に対して躊躇している層だ。若手の成功によって 「ABCプラン」の有効性が証明されたことが、彼らが賛同した主な要因だと室井は考えた。
営業5課内での更なる「ABCプラン」推進でも、顧客を絞り込み、訪問件数を現在の3分の1に減らす施策を室井は採用した。導入当初、多くのメンバーは今 までとは違うやり方に戸惑いを隠せずにいたが、室井による丁寧なフォローもあり、徐々に定着した。2週間後には新規の受注が入り始めた。1か月後には営業 5課の「ABCプラン」は完全に軌道に乗った。
同僚へのアプローチ
営業5課内での推進と同時に、他の課への展開の可能性を室井は探っていた。西日本支店全体への「ABCプラン」浸透では、他の営業課長に積極的に取り組ん でもらうことがキモになる。しかし、同僚、というより先輩課長ばかりの他の営業課に対し、新任課長である室井がいくら「ABCプラン」の有効性を説いたと ころで、営業課長陣は聞く耳を持たない。実際に、何人もの課長と会話を交わし、「最近若手が伸びて」と、室井がいくら話しても、営業課長たちは興味を示し てこない。それでは沖田支店長から「ABCプラン」に取り組むよう、伝えればいいのだろうか。恐らく室井が言わせた、と思われるのが落ちで、逆効果だろ う。室井は自らの無力さを痛感した。
そんな折、月1回実施される新任管理職研修に室井は参加した。以前「パワーと影響力」について学んだ研修である。そこで学んだことを室井はこの数カ月、活用していた。今回の閉塞感を打ち破る、何かヒントが得られないか、室井は期待した。
今回の研修では、社会起業家のケースが取り上げられた。リソースも何もない中で、高い志を持ち、海外で起業し、社会に貢献している内容だった。そこでは、 何もない中でも、どのように自らのネットワークを広げ、社会に影響を与えていくかということを学んだ。特に、周囲に強い影響を与える人物を巻き込むこと が、影響力を広げるポイントだった。西日本支店では、室井の観察によれば、新城課長がその人であった。
ベテラン課長へのアプローチ
営業4課の新城課長は、10人の営業課長の中でも古株の課長である。西日本支店での経験も長く、今の視点では3つの営業課の課長を経験している。部下の面 倒見がよく、若手から人気がある。若手を集めて課内での勉強会も開催している。課の実績自体は支店の上位であるが、足で稼げというスタイルではなく、良い ものがあれば積極的に取り組んでいこうという姿勢がある。合理的な考え方ができそうなタイプとの室井の見立てだ。新城課長を動かしたら、西日本支店全体も 「ABCプラン」に傾く、と室井は思っている。
新城課長には、以前室井は「ABCプラン」を話題にしたものの、他の営業課長と同様、深く話すことはできないでいた。正攻法で話しても警戒されるだけだろ う。「ABCプラン」に興味を持ってもらう良い手立てはないだろうか、と考えていた室井は、ふと営業5課で既に「ABCプラン」に取り組み実績をあげ始め ている真下君が、前の課で新城課長の部下だったことを思い出した。ここはぜひ一役買ってもらいたいと、室井は真下に依頼した。真下は、早速新城課長と時間 をとって話をしてきた。真下の最近営業の実績が好調であること。それも効率的に仕事が進められていること。特に「ABCプラン」の効果が高いこと。これは 本当に役立つので、新城課長もだまされたと思ってやってみたらどうかとも伝えてくれたらしい。さらに、新城課長の課でやっている勉強会に、室井課長をス ピーカーとして呼んできますよ、との提案も真下はしてくれたそうだ。元部下の熱のこもった話しぶりに感化され、新城課長は勉強会で室井が話をすることを快 諾してくれたそうだ。
開催された勉強会は好評だった。営業4課も、他の営業課と同様、メンバーは忙しくしている。忙しい割に、努力している割に、なかなか実績が上がらないジレンマがある。昔の営業5課ほど悪くはないが、忙しすぎるのは同様だ。当然、訪問件数も多い。それを、室井が、営業5課では「1日1件」の訪問に減らすこと で実績を向上させた、というのは営業4課のメンバーにとっても驚きだったようだ。しかも、今までは西日本支店内では、営業成績面で全く目立たなかった若手の青島たちが実績をあげている。新城課長からも、ターゲッティングなどテクニカルな部分で迷った場合はどうしたらいいかとの質問もあった。室井は、課を超えて、サポートすることを申し出た。
新城課長率いる営業4課が「ABCプラン」に取り組み、実績があがり始めているという噂はすぐに西日本支店全体に広まってきた。新城課長を慕う他の営業課 のメンバーにも、「ABCプラン」を受け入れる気配が表れてきた。室井は、今こそ西日本支店での「ABCプラン」勉強会を開催すべきタイミングだと感じた。
営業課長会議
定例の視点の営業課長会議で、沖田支店長から営業4課と営業5課の実績が最近急に伸びている、とコメントがあった。支店長からは、急に伸びた秘訣は何か、 共有の機会を与えられた。室井は先輩である新城課長に説明を譲った。先に話す形になった営業4課の新城課長は、「ABCプラン」の効果を力説した。新城課長の推薦は、室井にとってありがたかった。新城課長の説明の後に室井は営業5課で取り組んできたことを手短に話した。二人の説明を聞いて沖田支店長は、支店全体でそのやり方を共有してはどうか、と提案をした。実は室井は会議の前に支店長に、今こそ勉強会を、と伝えていたのだ。多くの課長から、「面白そうだ」との賛同の声が上がった。一部のベテラン課長が乗り気ではなさそうだったことが室井は気になったが、西日本支店全体が「ABCプラン」に傾いているの は良い傾向だと考えた。
ティッピング・ポイント・リーダーシップ
冒頭にあげた「現状に執着した組織」「限られた資源」「スタッフの意欲不足」「既得権益を守ろうとする有力者たちの抵抗」W・チャン・キム、レネ・モボルニュによれば、この4つが変革を行なうために乗り越えなければならないハードルだという。
今回は、営業5課の成果に懐疑的な他の課長達やその部下である営業担当者達、つまり「意欲不足のスタッフ」に、「ABCプラン」に対し、どのようにやる気を引き起こすかを見てきた。
室井のアプローチを分析すると、3つの方法、つまり「中心人物」「金魚鉢のマネジメント」「細分化」と名付けられるものに分けられる。
「中心人物(king pin)」とは周囲から尊敬を集める、影響力のある人々のことである。ボーリングでは5番ピンを倒せば他のピンが軒並み倒れるのと同様、この中心人物の協力者にできれば、一人ひとり説得する必要がなく、一気に全体を巻き込むことが可能となる。
西日本支店での中心人物は誰であろうか? それは10人の営業課長達である。今回、室井は、他の課長からも支店長からも信頼の厚い(つまり中心人物中の中心人物である)新城課長を巻き込んだ。これがキーであった。
中心人物である営業課長達の士気を高め、モチベーションを維持するためには、彼らの行動を目立つように紹介する必要がある。これが「金魚鉢のマネジメン ト」である。今回、新城課長の業績が営業課長会議で共有されたことがこれにあたる。今後、営業課長会議で、中心人物達の成果(特に「ABCプラン」への貢 献)を評価し続けていくことが、西日本支店全体での「ABCプラン」成功の成否を握る。
中心人物達、さらにその部下である営業担当者が何に向かって取り組むかを明確にすることも、意欲を高める上で重要である。西日本支店全体で「ABCプラ ン」推進を、と言っても、各人がそれぞれ何に取り組んで良いかわからない。担当毎に訪問件数を絞り、どこの顧客で何をすべきか、室井は担当毎に取り組むべ きことを明確にしている。一人ひとり、自分の持ち場において取り組む目標を明確にすること、これが「細分化」である。
パワーの使い方
「ABCプラン」の浸透に向け、ここまで着々と地場を固めた室井。前回は新城課長というキーパーソンを巻き込み、西日本支店全体へとプラン浸透の足がかりを得た。この段階までで室井が得たものはなんであろうか?
営業5課での高い実績、まわりの課の巻き込み。その実績が室井の評判を高めていく。営業課長として、室井の実績は極めて高い。これは個人のパワーにつながる。さらに支店長からの信頼、新城課長など他の課長からの信頼。さらには本社の吉田本部長からの信頼。関係性のパワーも盤石である。そしてもともと営業5課長として持っていた室井の権限、例えば部下の査定や異動に関する権限もある
室井がパワーを獲得してきた一方で、室井の進めた変革についていけない層もいる。パワーを持った室井は、変化に対応できない層に対しどのように向き合うべきか?
「ABCプラン」浸透に向けて
新城課長を巻き込んだことで、室井の改革は西日本支店内に一気に広がった。営業5課、4課、そして他の課にも広がる。下期のスタートは順調で、既に上期の遅れを取り戻している。この調子でいけば、西日本支店の営業成績は予算を大幅に上回ることが可能だ。支店長、課長陣、そして支店全体が自信を持って「ABCプラン」に取り組んでいる。
西日本支店での「ABCプラン」の定着は、室井の評判を全国に轟かせた。そして、他の支店でも積極的な導入に向けての動きが活発になった。取り組みの一番遅れていた西日本支店が一気に変わったことが、他の支店の導入を後押しする形になった。西日本支店は「キングピン」であった。
室井は支店赴任当初を振り返る。全く賛同者がいない状況でのスタート。だがこの半年で状況は一変した。苦労、悩みはあったものの、今思えば、恐ろしいほど順調だった。順調だったということは、この変化が完全に根づいているということではない。ちょっとした拍子で一気に元に戻ってしまう可能性もある。西日本支店の中で、「ABCプラン」の「定着」をいかに図るかが次の課題だ、と室井は感じていた。
身内の抵抗
西日本支店に「ABCプラン」が広がったものの、室井には心配事があった。それは、営業5課のベテラン、和久がいまだに従来の営業スタイルに固執していることだった。他の課でも、ベテランを中心に新たなスタイルに馴染まない営業担当者がいた。恐らく1、2割はいるだろう。その人たちへの浸透をいかに図るか、室井にとっての新たな課題であった。
ある日室井は、営業5課のベテラン営業、和久との営業同行に行った。室井よりも10歳以上年上である和久の営業スタイルはやはり昔ながらのものであった。ソリューションを顧客に提供できている感じはなかったが、一方で顧客との人間関係がしっかり構築されていた。顧客に無理に商品を引き取ってもらっているようにも室井には見うけられた。その営業同行の帰り、室井は和久に「ABCプラン」の件を切り出した。
「和久さんはお客さんと良い人間関係が築けていますね。ここまで出来るのは素晴らしい、羨ましいことです。一方で最近、私が導入を推進してきた『ABCプラン』というのがあります。営業5課でも、他の課でも導入が進んでいます。実績も出てきていることは和久さんも承知していると思います。この考え方を是非、和久さんにも取り入れて欲しいと考えているんです。既存のお客様とは良い関係が築けている一方で、新たなお客さんも取って欲しい。そのために、しっかりターゲットを絞って、やって欲しいんです」
室井に対し和久は慎重に言葉を選びながら返事をする。「課長の言うことはよくわかります。ですが私は入社以来30年近く、このスタイルでやってきました。予算もずっとクリアし続けています。何がまずいんでしょうか?新しいやり方は説明会で聞きました。正直、私のやり方とは全く違います。顧客のニーズというが、顧客と人間関係を築いて、そして、こちらがいいと思ったものを自信を持って相手に薦めれば、買ってもらえるんです。違うやり方をして、実績が出なくなったら、それこそ私はどうなるんですか?」
「和久さんが新しい営業方法に不安を抱くのはよくわかります。一方で、今後、このスタイルがわが社でも主流になります。和久さんのやり方のいいところを残しつつ、『ABCプラン』に取り組みませんか?和久さんのように、お客様と人間関係を築いている方が、『ABCプラン』を実践したら鬼に金棒だと思っています」
室井の丁寧な説得にもかかわらず、和久は決して首を縦に振らなかった。
部下の異動の打診
下期が始まってから2か月が経過した。不思議な現象が起こった。「ABCプラン」に取り組んでいる若手を中心に営業成績が絶好調である一方、今まで実績をあげていたベテラン営業の成績が下降気味なのだ。「ABCプラン」を実践している若手に伴い相対的に低く見えているのではなく、ベテラン営業の成績は前年を下回っている。若手の底上げがあるため、全体としては大幅な伸びを記録しているが、室井にとって気になる状況だ。
「ABCプラン」の成功によって、室井は支店の中で一目置かれる存在となっていた。「実績」という「個人のパワー」を実現した結果でもある。沖田支店長からの信頼もあつい。そんな中、支店長からミーティングが設定された。実績のあがらないベテラン営業に関してだった。支店長としては、実績が落ちてきている1割程度の営業担当者を、このまま放っておくことはできないとの意見を持っており、どのように処遇するか、室井の意見を聞きたい、とのことだった。
ベテラン営業を、このまま西日本支店に営業として残すか。それとも、営業以外の仕事に配置転換を行なうか、または子会社の営業部門に異動させるかという相談であった。
自分のやり方に馴染まない部下を、異動させるべきか、それとも、今のままとどめるべきか、支店長は室井に決断を求めた。室井は暫く考えさせてほしいと答え、支店長室を出た。
変われない部下への対処
和久の異動についての支店長からの打診を室井は考えつづけた。「和久さんは西日本支店が長く、顧客を良く知っている。『ABCプラン』を本気で取り組めば、必ず実績が出るはずだし、周囲に対しても良い模範となる。一方で、『ABCプラン』に取り組まないまま営業5課に残るとしたら、他の部下に対しての示しがつかない。『ABCプラン』に取り組んでくれるのであれば残留、取り組まないのであれば異動とせざるを得ない。」
「異動」を選択した場合の影響を室井は考えた。和久さんを異動させれば、営業5課のメンバーだけでなく、支店全体に対して、「ABCプラン」を本気で取り組むメッセージになる。一方で、室井は自分のやり方にそぐわない部下を「外した」というメッセージにもなる。和久さん本人からも、「外された」との恨みがでるはずだ。先日の営業同行以来、関係はぎくしゃくしている。
「異動させない」となると、「ABCプラン」に対しての本気度が示されない。いざ、うまくいかなかったときに、甘さがあることで、一気に以前の支店に戻ってしまう可能性もある。室井自身もいつまでも西日本支店、営業5課にいるとは限らない。自分の異動の後も、「ABCプラン」を定着させつづけることを考えないといけない。そのためには、旧態依然としたやり方を極力残したくない、という気持ちもある。
異動させるべきか否か。室井は悩んだ。いくら考えても、どちらがいいか、室井は判断しかねた。どのようにしたらいいか、何か参考になることはなかったかと考えた室井は、ふと、以前研修で学んだ「影響力」の話を思い出した。「そう言えば『コミットメント』というものを学んだな。異動すべきか否か、和久さん本人に選んでもらった方がいいのではないだろうか。誠意を持って和久さんにぶつけてみよう」と考えた。
部下の選択
室井は、和久と面談を行なった。室井の気持ちを率直に伝えた。和久の過去の貢献を認めた。営業5課を今まで支えてくれたこと、そして上期、「ABCプラン」が軌道に乗る前の営業5課の数字に和久の貢献が大きかったことを素直に認めた。
一方で、最近の数字の低下は気になっており、何か気がかりなことがあれば遠慮なく話して欲しいと伝えた。
気まずい沈黙があったが、徐々に和久は話し始めた。「正直、最初は『ABCプラン』なんてうまくいくはずがないと思っていました。ですが、予想に反して実績が出はじめた。営業として向いていないと思っていた青島君にまで数字で抜かれ、正直ショックでした。やはり営業は数字ですから。そこで焦りました。今まで自分で状況を見極めてお客さんに商品を売っていたのですが、焦りがあったんだと思います。最近、大丈夫だと思っていた客先で失注することが増えました。」
正直に状況を語ってくれた和久に、室井は感謝を表しつつ室井は、周りの成功がここまで和久を追い込んでいたことに驚いた。
さらに和久は続けた。「正直言うと、最近不安なんです。若手に成績で抜かれ、自分は今後どうなるのだろうか、と。私の場合、営業一筋で数字だけあげてきました。今後も、定年までこのまま営業一本で行くのだろう、と思っていたんです。そう思っていたんですが、営業のスタイルも変わってくる中で、今後自分はいったいどうなるのか、とても不安を感じています」
正直に語ってくれた和久に室井も正直に答えた。「和久さん、正直に語って下さってありがとうございます。私も和久さんの立場だったら、そう思うと思います。さて、今回和久さんとお話しさせて頂いたのは、実は和久さんに異動の話が来ているからです。販売子会社の営業課長、というポストです。和久さんの経験と人脈がいきると先方からラブコールが来ています。私自身、お客さんをよく知っている和久さんに残留して頂きたいと思っています。残って、『ABCプラン』をマスターして、以前のようにトップセールスの座に返り咲いて欲しいと考えています。もし和久さんに残って頂けるようなら、この話はお断りしようと考えています」
「事前に意向を確認して下さったことはとてもありがたいです。そして、残って欲しいという室井課長のお気持ちはありがたいのですが、やはり、今更『ABCプラン』を自分が実践できるとは思えません。向いてないことをやるより、自分の経験が行きそうな販売子会社に行きたいと思います」と和久は答えた。
和久の異動は、室井にとってほっとした半面、心痛いものであった。「もし自分が赴任してこなければ、和久さんも今まで通り頑張れたかもしれない。一方で、『ABCプラン』浸透は全社的な営業施策。この大目的がある中で、これは致し方ないことだったのかもしれない」そう室井は考えた。
和久の送別会。通常は若手が取り仕切るものだが、室井はここまで営業を支えた功労者の送別会ならしっかり今までの貢献を称えたいと思い、準備段階から率先して仕切った。それが室井の和久に対する感謝の表し方だった。
獲得したパワーの扱い
一度獲得したパワーを行使すべきか、否か。
今回、短期間で実績を積み上げた室井であるが、このことによって室井の得たパワー、特に「個人のパワー」は強力なものになった。支店内でのネットワークも広がり、「関係性のパワー」も獲得した。もともと持っていた役職上の「公式のパワー」も加え、営業5課では室井は絶大な力を持つことになる。室井の持つパワーが増えた一方で、元々営業で実績をあげていたベテラン達はどうなのだろうか? あげた実績は変わらないものの、若手の営業が育ったこともあり、ベテランに対する依存度は相対的に下がってきた。このことは、室井とベテラン営業とのパワーバランスが逆転したことを示す。
今回、和久が営業面で焦りを感じたのも、自らのパワーが相対的に下がったことを察知したからではなかろうか。パワーを持つことは、それを行使しないまでも、パワー行使の可能性を相手にほのめかすことにもなる。行使しなくても、影響を与えることができるのである。
「恐れられるか、慕われるか」
室井が持つパワーをもってすれば、支店内の「ABCプラン」に反発するベテラン営業に対し、自らの主張を押し通すことは可能である。
パワーを行使すれば、「本気度」を示すことが可能である。パワーに押されて周りも巻き込まれる。そして周囲に「絶対に引かない相手だ」との印象を持たせることが可能だ。いざという時は戦わないといけない、それも一つの選択だ。
一方で、パワーを敢えて行使しない、という選択もある。勝てない勝負でパワーを行使するのは無謀だ。しかし今回、確実に勝てる勝負でも、室井は戦わなかった。パワーを行使すれば相手が動く場合、そのパワーを行使すべきか否か。その判断の決め手となるのは「時間軸」と「リスク」だ。緊急で対応しなければならない場合、行使すべきだろう。緊急でない場合はどうだろうか。パワーを行使することのリスク、つまり強引に進めることでの反発や、マイナスの波及があるかないかだ。特に、相手の尊厳を傷づけるような行使の仕方をした場合、どこでどのような報復があるか、わからない。
「恐れられるか、慕われるか」とはマキアヴェッリの言葉であるが、それでは終わらない。「憎まれることを避けなければならない」とマキアヴェッリは続ける。今回、室井の和久へのコミュニケーションは配慮に溢れている。過去の貢献に対しての感謝、相手の選択を尊重する姿勢。最後まで、室井らしく、ソフトなアプローチを取り続けた。室井のリーダーとしての成長が伺える。
実践に向けて
成功するリーダー、つぶれるリーダー
リーダーシップの国際的研究機関であるCCLによるとリーダーとして成長する機会として大きく4つの要素が挙げられるという。チャレンジングな機会、困難・修羅場、他者からの学び、その他とある。実際に成功したリーダーの話を聞くと、事業の立て直し、新規ビジネスの立ち上げ、大規模なプロジェクト、海外などの拠点でのチャレンジ、そしてそこでの苦労の中で、人・組織を動かす術を身につけて来たことがわかる。
一方で1つ疑問がある。困難さや修羅場を乗り越えリーダーとして成功した方々がいる一方、それを乗り越えられず消えていったリーダー候補はさらに多いのではないだろうか?将来を期待する人材としての成長を意図してチャレンジングな機会を与えたにもかかわらず、期待に添えずつぶれてしまったとしたら、企業としても、個人としても、不本意である。
その問題意識が、グロービスの経営大学院や企業研修向けでの「パワーと影響力」という科目の開発、さらには今回の連載に込められている。連載の最後である今回は、今までのポイントをまとめるとともに、なぜリーダーにパワーと影響力が必要なのかを考えてみたい。
リーダーに求められる「実行力」
失われた10年が、失われた20年と言われようとしている。この20年、日本企業は激変する環境の中、生き残りを目指して「変革」を目指してきた。環境変化にいかに対応するか、厳しい状況からいかに復活するか、環境変化に対応するのではなく自ら変化を起こしていけるか。この3つが「変革」の大きなテーマである。
向かうべき方向性を立案し、やるべきかを意思決定し、「実行」する。そしてその結果を組織に定着させる-この変革の一連のプロセスは、多少の差こそあれ、経営学者やコンサルタントといった、変革する企業外から携わる人も、変革を内部から取り組む実務リーダーも、共通である。効果的な戦略を立案し、意思決定することは難しいが、さらに戦略に対する抵抗を乗り越えて「実行」することは特に難易度が高い。そして実務リーダーにとっては、戦略の実行は、まさに冒頭で述べた成長機会である「チャレンジングな機会」「困難・修羅場」にあたるのである。では、この難所を乗り越え、「実行」するためにリーダーには何が求められるのだろうか?
戦略の実行を一人のリーダーだけで担うことは難しい。たとえば、優れたリーダーがどんなに良い戦略を考えたところで、実際にそれを実行するには顧客に向き合う営業担当者が必要である。現在はさらに、グローバル化が進み、組織もフラットになり、顧客やパートナー企業とも連携しつつビジネスを進めていく。一人で組織を切り盛りできる時代ではなく、多様な能力をもった人たちに、相互に依存しつつビジネスを進めていく必要がある。
「多様性×相互依存」の世界で仕事を進めていくうえで他者からの協力は必須である。だが実際には、協力をうまく引き出せる人、引き出せない人がいる。人を巻き込む力がビジネスの成否に影響する。いくら志が高くても、それだけでは先に進められないのである。
では志を実現するために、他者から協力を引き出し、巻き込んでいくには何が必要なのだろうか?
実現のための正しい戦略を論理的に伝えることは最低限必要である。だが、それさえできれば人・組織が動くわけではない。相手は人間であり、そこには合理的な判断だけでなく、感情的な判断もある。意識すらしない生物的な反応で意思決定する場合もある。正論だけで人・組織を動かすことは難しい。
「今の自分ではとても人・組織を動かす力はない」「もっと偉くなってからではないとやりたいことはできない」という人もいる。しかし、本当に大事なことであれば、今から取り組んで欲しい。それを実現できるよりどころとなるものが「パワーと影響力」だと考えている。
今回の7回に及ぶ連載は、「上司を動かす」「部下を動かす」「関係者を動かす」と異なる3つの状況設定から考察した。実際にはそれだけでなく「他部署を動かす」「社外を動かす」ことが求められる。「パワーと影響力」を活かす状況をこのように広げた場合について考えてみよう。
(1)人を動かす3つの「パワー」
「パワー」には、「公式のパワー」「個人のパワー」「関係性のパワー」の3つがある。
「公式のパワー」は強制力(人の配置や降格させる権限)、報酬力(人を昇進や昇給させる権限)、正当権力(強制力、報酬力を含む組織上の権限)、情報力(人事情報など限られた情報へアクセスし、コントロールする力)の4つを源泉とする。「公式のパワー」というと、オフィシャルなもの、合理的なものという印象を受けるが、実際には人間の合理的な判断のみならず、感情面での判断にも働きかける。例えば、自部門ではなく他の部門に絶大な権限を握る人事担当取締役がいたとする。レポートラインからすれば、彼の決定に必ずしも従う必要はないのに、自社においても誰もが反対できないというはこの「公式のパワー」に対する恐怖の感情と追従することで得られる利益(合理的判断)を背景とする。だが実際には、ここまでの絶対的な権限を持つ人は限られるし、それを持てるまで自分の成し遂げたいことができないかというとそうでもない。公式のパワー以外のパワーを有効に使うのである。
「個人のパワー」は専門力(専門技術、特殊なスキルによる力)、同一化力(憧れの対象と同じようになりたいという力)、カリスマ性(同一化力のさらに極端な形)の3つからなる。例えば、社内外でその技術に関しては右に出るものがいない人の意見(専門力)、尊敬する元上司や先輩からのレポートラインを通さない依頼(同一化力、カリスマ性)等について、ついうなずいてしまった経験はないだろうか?「個人のパワー」は業務への精通や、素晴らしい実績によって社内で確たる地位を築いているという場合に持てる力である。
「関係性のパワー」とはパワーを持つ第三者とのコネクションを利用して人に動いてもらうことを言う。例えば「今回の件は社長も期待しています」と相手に依頼するのは、パワーを持つ第三者を有効に活用して人を動かす例でもある。
自分にはまだ権限が少ないので何もできない、組織を超えて人を動かすなんて無理だと嘆く前に、ビジネスを前に進めるために誰の協力が必要か、その人を動かすパワーは何か、それを自分は持っているか、持っていないならどのように獲得できるかを考える必要がある。
(2)「影響力の武器」
人に動いてもらうほどパワーを持っていない場合がある。パワーを獲得するには時間がかかるが、それを待っている余裕もない。そのような場合に有効なのが「影響力の武器」である。これは正しさ、論理性、パワーのように、受け手がその存在を明確に意識することなく、無意識のうちに動いてしまう原理である。
社会心理学者であるR.チャルディーニはその著書「影響力の武器」の中で、人が無意識に行動を決定してしまう背景を「返報性」「社会的証明」「好意」「権威」「希少性」「コミットメントと一貫性」の6つの要因で説明している。以下は、6つの要因を例示したものである。
1.交渉の場で相手が先に譲歩したのでこちらもそれに応じて譲歩する(返報性)
2.同業他社の大多数が採用しているシステムを自社も採用する(社会的証明)
3.仲の良い同期から依頼された仕事を断れずついつい引き受けてしまう(好意)
4.会計士や弁護士といった専門家の視点からも検討済であると説明され納得する(権威)
5.全社で抱える在庫が残り少ないことが判明。多くの営業拠点から在庫を押さえるために発注が集中する(希少性)
6.営業会議で発表した目標を達成するために必死に努力する(コミットメントと一貫性)
ビジネスの現場でもよく見られそうな意思決定や行動であるが、この行動はなぜなされたのだろうか?6つの例は「合理的」に考えられて取られた行動かというと、必ずしもそうではない。ビジネスの意思決定の中で、実際には論理的、合理的に判断をせず、何か他の影響によって「無意識」に意思決定してしまうのである。
6つの「影響力の武器」の効果的な活用は、自分自身のパワーが十分でない場合でも人を巻き込み、動かす一助となる。一方で、その有効さの半面、その原理の乱用、悪用は相手に不快感を与えることにも注意が必要である。
(3)パワーと影響力を考える上でのプロセス
では、「パワー」と「影響力」について学べば、それらを有効に使うことは出来るのだろうか?
これらを有効に使い、成し遂げたいことを実現するには、その使い方を考える必要がある。そこで有効なのが「プロセス」である。
第7回までの連載である「パワフル社」のケースを振り返ってみよう。「ありたい姿」として「ABC戦略」の浸透とその結果である営業力アップを室井は強く心に描いていた。その実現に向け室井は「状況分析」を進めた。分析の対象は上司である支店長、自分の部下である営業担当者、支店全体に浸透させるとした場合の他の課の課長、メンバー達である。それぞれが「ABCプラン」に協力するには、どのようなパワーが室井に必要で、それを室井は持っているのかを分析したのである。
次の「基本スタンスを決める」は、パワーを持っている場合、行使するかしないかを、持っていない場合、獲得を目指すかパワー以外で前に進めるかを決めることである。そして相手に動いてもらうために、「パワー」と「影響力」をどのように使うか、具体的な「アプローチ」を考え、そして「実行」する。
ここでのポイントは、どのように人・組織を動かしていくのか、プロセスを使って徹底的に方法論を考えるということである。
ここで忘れてはならないのは、パワーや影響力を使うこと自体が目的化してしまうことである。「パワーと影響力」は、あくまで「ありたい姿」を実現するための手段なのである。
たくましいリーダーになるために
今回の連載には多くの方からリアリティがある内容だ、とのフィードバックを頂いた。それは、ケースの内容に筆者の体験も盛り込んでいたからでもあるだろう。私自身、様々なプロジェクトをリードする機会があった。厳しい要求に応えつつ期待を上回る成果を出せた誇らしい体験もあれば、関係者とうまくいかず一向にプロジェクトが進まないことも経験した。自分自身が焦るあまり、強引にプロジェクトを進めようとしてメンバーの不興を買ったこともあった。
そのような実際の体験の中で、思考錯誤しながらも、何か打開する道はないかと「影響力」や「パワー」について徹底して調べた。上司や先輩からの薫陶を得る機会も多かった。多くの読者も、今回の連載に書かれていたことは、仕事を通じて似たようなポイントを学んだこともあるのではないか。
経験や書籍を通じて学べることは多い半面、未知の領域へ挑戦する機会が増え先人の知恵が活かせないことも多くなる。また経験や書籍で書かれたことは、仕事の進め方の「コツ」の集合であることが多く、部分部分としては使えるものの、体系立てて使えるものは意外に少ない。そこで我々は、人・組織を動かす方法論を、単にハウツーだけではなく、再現性のあるメカニズムとプロセスの面から体系化することにチャレンジした。今後は是非、皆さんご自身のケースで、どのように人・組織を動かすかを徹底的に考えて、使って欲しい。
そしてそれを使い、身につけ、たくましいリーダーとなって欲しい。
「パワーと影響力」を身につけ、優れたリーダーになるためのヒントとして、「自己効力感」というものがある。これは、スタンフォード大学のA・バンデリューラ教授による理論で、「自分にはある目標に到達するための能力がある」という感覚をいう。これには「結果予期」(ある行動がどのような結果を生み出すか)と、「効力予期」(必要な行動をどの程度上手く行なうことができるか)の2つに分けられる。
自己効力感は、徹底的に考え抜くことで生じる。つまり、よく考えたことなので成功確率もあがるはずであるし、誰よりも考え抜いたということ自体が出した結論に対する自信につながるのである。
皆さんには、人・組織を動かすという困難な状況でも、今回の連載をヒントに、「これはいける!」と実感が持てるレベルまで考え抜き、組織を成功に導いて欲しいと考えている。今回の8回に渡る連載が、読者の皆様の成功、そして皆様の組織において強いリーダーを増やすきっかけになれば幸いである。
※文中の所属・役職名は原稿作成当時のものです。
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